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2001年4月19日:本田宗一郎物語(第119回)

 副燃焼室付きのディーゼル・エンジンを改良して作った実験用エンジンで、データ収集が行われているころ、試作エンジンが開発されていた。これはN360の輸出版であるN600のエンジンをベースにしたもので、空冷単気筒300cc副燃焼室付きエンジンであった。
 1970年1月にこの試作エンジンは完成した。
 このエンジンを使って、副燃焼室の形状やその他の最適条件の割り出しと、希薄燃焼についての基礎研究が行われた。この研究室に、宗一郎はちょくちょく顔を出し、スタッフたちに煙たがられていた。
 ある日のことである。
 「おい、お前ら、うちが機械式燃料噴射装置を開発したのを知っているだろうな?」
 「は、はい」
 「F1の開発から生まれたものだ」
 「はい、存じております」
 「高出力を出すエンジンはな、適切がガソリンの量を送り込む必要があるから燃料噴射装置が必要なわけだ、知ってるな」
 「はい」
 「完全燃焼を求める低公害のエンジンだって同じだろう。余計なものを出さない、ということは、余計なものを入れないということだ」
 「はい、その通りです」
 「知っている、ということだな」
 「はい」
 「では、なぜ、その燃料噴射装置を、この副燃焼室付きの実験エンジンと組み合わせないんだ」
 「……」
 「いいか、色々な研究室で、たくさんの成果が上がっている。そういった仲間達が達成した成果を利用しないということはな、仲間を尊重していない、ていうことだ」
 「いえ、そんなことは……」
 「いや、使わないということがそういうことだ。何でも自分で実験して、その実験データだけを信じて開発するというのは技術者に必要な資質だ。それはそれでいい。だがな、うちの研究所で開発されたものは、俺たちのものなんだ。仲間を尊重するなら、仲間が開発したものは使え」
 「……」
 「お前達は、すぐ俺が来ると、また設計のし直しをさせられる、といって煙たがっているがな、研究所で何が開発させているのか、それをどのように組み合わせたらいいのか、研究所全体を見渡せるものは、俺をおいていないぞ、まだな」
 こうして、希薄燃焼の実験は、従来のキャブレター方式と燃料噴射装置方式の二通りで行われることになった。

 またあるときは、
 「おい、実験はうまくいっているのか」
 「は、はい、この実験用のエンジンではかなりいい線に来ています」
 「このエンジンでは、とはどういうことだ」
 「このエンジン以外では実験できないので、一般的に大丈夫かどうかは……」
 「エンジンヘッドだけ作って、他のエンジンにくっ付けてみたらいいじゃないか」
 「あの、うち、つまりホンダには、車用のエンジンがないもので」
 「ばかやろう。うちになければ買ってくればいいじゃないか。車ごと買ってくれば何の問題もないだろう」
 「他社のエンジンをですか」
 「そのために、この方法にしたんだろう。世界の空気をきれいにするために、お前ら実験をしているのだろう。トヨタだろうが日産だろうが、かまわん、エンジンのヘッドだけ付け替えて実験したらいいだろう」
 こうして、日産の1600ccをベースにしての実験も開始されたのだった。

 N600のエンジンをベースにした空冷単気筒300cc副燃焼室付きエンジンでの研究が終了した。有害成分の減少の目途が立ったと報告を受けた宗一郎は、
 「おい、この成果を発表するぞ、支度しろ!」
 「ちょっと待ってください社長」
 「何故だ」
 「目途が立ったといっても、研究中のことで、特許の申請もまだ完了していません。実用機ができたわけでもありませんし」
 「ばかやろう! 世界中の車メーカーはな、マスキー法のクリアーは不可能だ、と行って団結して反対しようとしているんだ。その反面でな、世界中のひとがクリーンなエンジンの出現を待っているんだ」
 「……」
 「うちがな、マスキー法をクリアーするエンジンを開発した、と世界の公表することの意味がわからんのか」
 「しかし……」
 「しかしはない。お前らは、俺を疎ましく思っているだろうがな、俺はまだ社長だ。俺が公表すると言っているんだ、準備をしろ。おまえらの時間の尺度で十分な時間など、俺は待っていられん、わかったな」

 こうして1971年2月12日、大手町の経団連会館で記者会見が行われた。
 「ホンダは、1975年の排気ガス規制値を満足させるレシプロ・エンジンの開発の目途が立ったので、1973年から商品化をいたします」

 この発表に一番驚いたのは、ホンダの研究員だった。商品化の目途など立っていなかったからである。


2001年4月20日:本田宗一郎物語(第120回) につづく


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