Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年4月20日:本田宗一郎物語(第120回)

 1971年2月12日の記者会見で、1975年の排ガス規制をクリアする目途が立ったと公表したが、そのときシステムの名前は、CVCCであることも発表された。
 CVCC命名に当たって優先されたのは、特許申請が完了していなかったので、名前から内部の構造が推測されることがない、ということだった。
 宗一郎の一存で発表されたものの、商品化の目途もアメリカから認定をもらえそうな目途も実は立っていなかった。
 小型エンジンでの認定は厳しいと判断した研究所のスタッフは、2000ccのCVCCエンジンを100機作ることにした。このエンジンは、2ヶ月で開発され、自前の車がなかったため、日産・サニーに搭載されてテストされた。

 1972年10月11日 東京・赤坂プリンスホテルにおいて、CVCCエンジンの全容が公表された。
 このCVCCの公表は、宗一郎が予想した通り大きな反響をよび、すぐさま、アメリカ農務省EPAからCVCC搭載車の提出依頼がきた。
 ホンダは、CVCCエンジンを搭載した日産・サニーを3台送り込んだ。立会テストは、1972年12月7日から14日まで行われ、1975年マスキー法合格第1号となった。

 宗一郎の厳命で、公害対策技術は公開するという方針は守られ、アナウンスもされた。もっとも反応が速かったのはトヨタであった。トヨタのエンジニアがホンダに出向き、CVCC技術の説明をうけた。1972年12月には、トヨタへの技術供与の調印が行われた。
 トヨタとのCVCC技術供与の調印は内外に大きな反響を呼んだ。そしてそれは、フォード、クライスラー、いすゞへの技術供与の引き金となったのだった。

 1973年12月13日、ホンダ・シビック・CVCC1500cc4ドア車が発売された。宗一郎が公約した1973年の商品化は、ぎりぎりのところで果たされたのだった。

 1974年11月、ホンダ・シビックCVCC1975年モデルがアメリカEPAに持ち込まれた。1975年排ガス規制適合車の認定を受けるためである。
 ホンダの担当者が緊張しながら結果が出るのを待っていた。
 EPAの審査官が、
 「おめでとう」
と言って握手を求めてきた。
 ホンダの担当者は胸をなでおろした。合格したことだけに喜んでいたが、後になって「おめでとう」の意味がわかったのである。EPAの審査官は、「燃費が一番である」ことに対してそう言ったのであった。
 低公害エンジンはパワーが無く、燃費が悪いという通説をみごとに覆したのである。「余計なものを入れなければ、そして完全に燃焼させれば、余計なものは出ないはずだ」という宗一郎の直感は正しかったのである。

 話は前後するがシビックについて語らなければならない。
 ホンダ・シビックは、ホンダに四輪メーカーとしての基盤をもたらした大ヒット商品である。
 このシビックは、反ホンダ1300、反宗一郎的車を目標として作られたものである。
 宗一郎の天才ぶりを技術者の立場から最も理解していた河島が言った言葉がある。
 「本田宗一郎という天才に代わり、100人の凡人が同じような仕事をするにはどうしたらいいか」
 河島は、100人の凡人が集まって知恵をしぼり協力しあっっても、決して一人の天才を超えることはできないことを知っていた。しかし、商品を買ってくれ会社に利益をもたらしてくれるのは、決して少数の天才でないことも知っていたし、会社が大きくなっていくにつれ、天才がリーダーであることはマイナスであることを十分認識していた。その河島がリーダーとなってシビックが開発されていったのであった。
 宗一郎は、河島を信頼していたので、シビックの開発にはあまり口をださなかった。それでも、開発スタッフは宗一郎に反対されるのを恐れて、内緒で進めた開発があった。
 後輪のサスペンションである。
 スタッフ達は、車軸のあるリジッド式では、後部座席の空間が広げられないという理由、軽量化という理由、これからの技術であるという理由からストラット式四輪独立懸架を採用したかったが、宗一郎はリジッッドがお気に入りであることを知っていたので、あえて秘密で開発を進めた。
 ある日、宗一郎が後輪のサスペンションを見て、開発責任者は役員室に呼ばれることになった。
 担当者の必死の説明にも、宗一郎の渋い顔はいっこうに変わらなかった。そして最後に
 「俺には独立懸架の良さはわからなねえな」
と言った。
 その時、河島が、
 「この男が、これだけ言うんですから、どうでしょう、やらせてみては」
と言った。
 「そうか、ならやれよ」
と宗一郎は返事をした。
 このエピソードは、宗一郎が新しい技術についていけない、とか頑固者だった、という例として取り上げられることが多い。
 しかしそれは天才というものがどういうものかを知らない者が、自分の尺度で解釈して取り上げるからである。
 ●水冷エンジンでなければ公害対策はできない、といった若いエンジニア達。
 ◎しかしCVCCの可能性を実証したエンジンは空冷ではなかったのか?
 ●熱対策が無理なので空冷F1のエンジンは無理だと言った、F1のエンジニア達。
 ◎しかし副燃焼室を設ければ主燃焼室の温度が下がることが後から実証されたではないか、それをどうしてF1のエンジンでやってみなかったのか?
 宗一郎の無念はいまだに理解されていない。天才は天才が故に孤独なのである。
 宗一郎は独立懸架を否定したのではない。
 リジッドが駄目だと安易に決め付け、他で開発された目新しいものに飛びつく姿勢が気に入らなかったのである。
 リジッドの限界を見極めたのか?
 新しいサスペンションは本当に安全なのか?
 新しい技術はいい。しかし、あるものを自ら開発、改良を重ね限界に達したとき、それらの経験を通して閃き生まれるものが、本当の新しい技術だ、と宗一郎は確信していたのである。
 しかし、宗一郎も年をとった、と自覚してきていた。
 若いエンジニアに自分の信念を伝える気力がなくなってきたからである。
 「そろそろ身を引く頃かな」
 宗一郎はそう呟いていた。


2001年4月21日:本田宗一郎物語(第121回) につづく


Back
Home



Mail to : Wataru Shoji