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2001年4月11日:本田宗一郎物語(第112回)

 N360で初めて車のオーナーになった人たちは、買い替えの時期に、日産のサニーやトヨタのカローラに流れていった。ホンダが自動車メーカーとして成功するためには、彼らが欲しがるような車を用意しなければならなかった。
 宗一郎が考えてた車は、1300ccの空冷エンジンを搭載したセダンであった。それはホンダ1300と名付けられ、F1のRA301やRA302と平行して開発が行われた。
 宗一郎が空冷に固執した理由はすでに述べた。
 宗一郎の夢は、その空冷エンジンの車が、フォルクスワーゲンのように世界中でヒットすることであった。そして、その空冷エンジンの優秀さをF1というレースの場で実証し、アピールすることだった。オートバイでそうしてきたように。
 しかし、もはやその夢が叶わないことを宗一郎は知った。
 研究所のスタッフは、空冷のF1、RA302の面倒は見たがらなかったし、F1の連中は、RA302を走らせたくながっていた。ホンダ1300の現場からも空冷エンジンでは駄目だとか、ホンダ独自のアイディアの固執するあまりに、車としてのバランスに欠く、とかいう声が聞こえてきた。
 「創業の頃は……」
と宗一郎は思った。
 「だれもが、自分の理念を理解しようとしてくれた。俺がやれということを、だれもが夢中になってやってくれた。しかし、もうそういう時代ではないのだ。会社が大きくなるということは、こういうことなのか?」
 せめて、このホンダ1300だけは自分の思うような車にしたい、と宗一郎は思いながら、陣頭指揮に当たった。

 1968年10月21日、F1撤退の声明に先んじるように、ホンダはH1300記者発表の席を設けた。プレス陣に向けての宗一郎は発言した。
「ホンダ1300は世界のどこの市場にも通用する国際商品となるよう、開発を進めてまいりました。当社はオリジナリティを経営の基本と考えており、どこの真似でもないホンダだけの独創的な商品開発こそ、新しい需要喚起の決め手であるとする一貫した思想を持っております」
 次いで宗一郎は、ホンダ1300が96馬力・最高速度175kmという高出力を持ち、優れた居住性を備えた、FF方式による高級セダンであることを強調した。
「このニューマシンこそ、自由化対策にふさわしい本格的な輸出商品であると確信しております。どうぞ十分なご批判をいただき、ホンダ1300が新しい時代に応えるようご鞭撻をお願いする次第です」
 熱弁をふるう宗一郎の頭上には、『世界の期待に応えるスーパーセダンHONDA1300登場!』の垂れ幕が掲げられていた。
 だが実際には、ホンダ1300量産への道は、困難をきわめていたのである。
 ホンダ1300の第一号車が完成したのは、同年の7月。動力性能やエンジン各部の測温など、基本的なテストをこなすための試作車である。とはいえ、独創性に富むDDAC(Duo Dyna Air Cooling=一体構造二重壁空冷方式)エンジンをすでに搭載していた。宗一郎に檄を飛ばされ、研究所のエンジニアたちが日に夜を継いで開発した新型エンジンである。
 冷却ファンで強制的に送り込んだ外気で燃焼室の周りを冷やし、さらに走行風で外壁からもエンジンを冷やそうとする二段構えの冷却システムを持つこのエンジンによって、「コンパクトで、性能と経済性を重視し、水冷に匹敵する静粛性を持つこと」という基本テーマはほぼ十全に達成されていた。鈴鹿工場では、大規模な生産ラインの準備が着々と進められてもいる。量産化は近いと思われた。しかし―

「こんなんでどうする? すぐ設計変更だ!」
 自ら陣頭指揮を執り、ホンダ1300に賭ける宗一郎の意気込みは尋常でなかった。宗一郎は研究所に毎日顔を出し、それぞれの担当者に直接指示を出した。なかでも、空冷エンジンの最難問である熱問題には細かく執拗な目を注いだ。実際にトラブルが頻出するのも、温度にまつわる部分だった。
「オイルタンクの形状を変えて風を流れやすくしろ。フィンも付けてみたらどうだ」
「クランクケースの中でオイルが暴れているんだろうが、馬鹿野郎!」
 精力的に歩き回っては声を放ち、時に顔を赤く染めてエンジニアを怒鳴りつける宗一郎は、ぐらぐらと沸き立つ間欠泉を思わせた。アイディアは次から次へと噴き出し、熱湯となって周囲に降り注ぐ。
 そうしたさなか、9月にはトヨタが1900ccのマークUを発表。ホンダ1300の基本仕様には、さらなる高出力化をめざしてまたも変更が加えられた。10月の記者発表は、まさにそうした時期におこなわれたのである。

「自動車メーカーの最終目標ともいうべき理想のエンジンだ」
 記者発表の席で、DDACエンジンに接した西ドイツ・AUTOKRITIK誌の記者が、感嘆のあまり思わず発した言葉である。
 同じ年のモーターショーでは、ホンダ・ブースを訪れ、じっとDDACエンジンを見つめていたトヨタの社長が、その直後、自社の若い技術者を集めて、こんな雷を落としたという逸話も残っている。
「ホンダは1300ccで100馬力近く出している。何でうちにできないんだ!?」
 技術的な評価はきわめて高かった。ホンダ1300は、並外れた性能をそなえたセダンであった。体力と気力を限界まで使い果たしたエンジニアたちの働きは、見事に報われたといってよい。だが、彼らの真の労苦は、実にここから始まったのである。


2001年4月12日:本田宗一郎物語(第113回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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