Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年4月7日:本田宗一郎物語(第108回) 「もう、起きたほうがいいわよ」 という妻の声が聞こえる。昨晩からずっと浅い眠りだったが、明け方から眠れたようだ。 「そうだな」 「あなた、あまり眠れなかったんじゃないの」 「まあ、でも大丈夫だ」 「あなた、気をつけて。今年は……」 「それを言うな。俺は大丈夫だ」 今年は、事故が多かった。ロータスのファースト・ドライバーのジム・クラークが、BRMのファースト・ドライバーのマイク・スペンスが他界してしまった。 カーテンをあけると、しとしとと雨が降っていた。 「あなた……」 「雨のようだな」 「大丈夫?」 「大丈夫だ。俺の役割は優勝することでも、速く走らせることでもないんだ。新型のマシンのおひろめだけだから無理をするな、とホンダの人からも言われている」 「……」 「おれは、F1をドライブするのが夢だった。一度だけ乗らせてもらったことはあるが、この歳になると、もう声もかからんだろう。生涯の記念に乗っておきたいんだ。それも、オートバイでチャンピオンのホンダが作った最新のF1マシンだ。君にはわからんだろうが、ドライバーにしてみたら大変な栄誉なんだ」 「わかってるわ、あなた」 「無理はしないから」 1968年7月7日ルーアン・サーキットでフランス・グランプリが始まろうとしている。 誰かが、シュレッサーに言った。 「エンジンの回転は半分以下に抑えて走るように。もし回しすぎるとオイルを撒いて危険だからな」 「大丈夫だ、わかっている。俺は、F1グランプに出れるだけで満足なんだ。無理はしないと約束する」 「たのんだぞ」 スタートに失敗しても追突されることはない、そう自分に言い聞かせているうちに、シグナルが変わった。クラッチをそっと離したつもりだったし、アクセルを吹かしたわけでもないのに、RA302は軽く前に出た。前の車の水しぶきが見える。 「無理をするな」 シュレッサ−はそう言い聞かせながら、シフトをアップしていった。軽い車体は、アクセルの微妙なバランスですぐオシリを振るようだった。RA302独特のものなのか、F1特有のものなのか、シュレッサ−にはわからなかった。俺の乗っているカテゴリーのマシンとF1とでは、トラックとスポーツカー以上の差があるという。 RA302の座席はかなり前方にある。そこから開ける視界は今まで体験したことのない世界だった。 「エンジンは6千回転より上は使わないこと」 シュレッサーそう言い聞かせながらシフトをしていった。しかし、 「抜かれてはいないということは、ビリではないんだ」 一周目の最終コーナーを立ちあがり直線に入ると、まだ前のグループが見えた。 「差は10秒くらいか。回してもいないのに、けっこうついていってるじゃないか」 シュレッサ−は、気分がよくなった。雨もあまり気にならなくなった。 「このストレートで、全開にできないのが残念だ。せっかくコーナーでの立ちあがりがいいのにな」 メインストレートを走りながらシュレッサーはそう思った。 軽い下りの右に回る第2コーナーで、シュレッサーは、ハッとした。 「用心用心。この高速コーナーは注意が必要だ。あらかじめスピードを十分落としておくことだ」 そう、シュレッサーは呟いた。 二周目の最終コーナーを立ち上がりホームストレートに入ると、まだ前のグループが見えた。 「20秒ぐらいだ。俺としてはまずまずだ。息子よ、俺を見ろ、最新型のF1を操っているぞ。お前も大きくなったら、F1ドライバーになれよ。女房には苦労をかけるが、それが男の夢というものだ」 最後のストレートを走りながら、息子に語りかけた。 気が付くと、テールが流れ初めていた。 「まずいぞ。ブレーキは危険だ。ステアリングで何とか」 しかし、雨に塗れた下りの高速コーナーで、全てのグリップを失ってしまったマシンのコントロールは不可能だった。シュレッサーはギアをニュートラルに入れた。足のブレーキと両腕でステアリングでコントロールを試みたが……。 「だ、だめか!」 コーナーの先の土手が迫ってきた。どうしようもなかった。 土手に激突し、横転しながら土手の向こう側へ落ちていくとき、シュレッサーは妻と息子のことを思った。いきなり衝撃が走り全て消えた。 その後、シュレッサーは自分が火に包まれたことを知らない。 2001年4月8日:本田宗一郎物語(第109回) につづく 参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、「F1地上の夢」朝日文庫 Back Home Mail to : Wataru Shoji |