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2001年4月4日:本田宗一郎物語(第105回)

 話を1968年の初めに戻して、水冷F1の足取りを追っておく必要がある。
 1968年用の水冷F1エンジンは、川本の手で順調に進んでいた。1967年用のRA293Eは入交の設計だったが、これをベースに川本が設計した。名称はRA301Eである。入交が断念したバルブのスプリング用にトーションバーを用いるアイディアを再考することが義務付けられていた。また、エンジン側面から空気を取り入れ、エンジン上部に排出していたRA293Eに対して、RA301Eはエンジン上部から空気を取り入れ、エンジン側面に排出する方法をとった。ガスの流れの効率を改善するためであった。

 一方水冷F1のシャーシは、中村がロンドン郊外にあるサーティーズのガレージで作ることになっていた。第1戦は、1月1日の南アフリカ・グランプリだったので、ここではRA300を出場させ、RA301のデビューは5月の第2戦スペイン・グランプリと決められた。

 RA300最後のレースとなる1968年の第1戦南アフリカ・グランプリでは、予選6位であった。決勝では、最高速を活かして、1周目で4位までポジションを上げた。しかしエンジンにガソリンが送られてこないような症状が出始め、徐々に順位を落としていった。中村は、ホンダ製燃料噴射装置をののしった。サーティーズは完走はしたものの8位とノーポイントであった。
 レースと原因を調べてみたら、燃料コレクター・タンクのエア抜きの穴にゴミが詰まるというケアレス・ミスであった。

 中村の計画では1月下旬に新シャーシを仕上げ、それを東京に送って、川本のRA301Eを載せ、鈴鹿でテストをして5月12日の第2戦に備えることになっていた。
 南アフリカからロンドンに行った中村が聞かされたのは、新型シャーシは、2月の中旬にならなければ出来上がらないというシャーシ設計主任のコメントであった。ローラ社の下請けのサボタージュのせいだという。

 2月の中旬に、RA301のシャーシが送られてきた。サーティーズも来日した。しかし、新型の水冷エンジンRA301Eはできていなかった。川本による基本設計は終わっていたものの、空冷エンジンと水冷エンジンの二つを同時に消化しなければならない製作スタッフは、みなオーバーワークだったのである。
 サーティーズは、東京のホテルで何もできないまま4月まで待たされることになり、研究所に対して不信感を抱いたと言われている。しかし、2月の時点でエンジンの完成予定日を把握できず、来日予定を変更してもらうことを伝えられなかった中村氏の責任の方が大きいと筆者は思っている。
 宗一郎が空冷に夢中になっていることは誰でもが知っていた。その宗一郎から距離をおいて水冷をする予定だったとするなら、どうして出来上がったエンジンをイギリスの基地に送り、そこでシャーシと合体させテストをしなかったのだろうか。RA300の時はそうしたのだから。
 上手くいかなかった全ての原因が、宗一郎が空冷に熱を上げていたためだ、と書いてある文献が多いがそれはアンフェアであると筆者は思っている。
 鈴鹿で一ヶ月に渡って行われるはずのテストは2日間になってしまった。それでもサーティーズはRA301の素性に満足した。4月の中旬、RA301は、ヨーロッパへ送られた。

 1968年5月12日、ハラマ・サーキット90周で争われるスペイン・グランプリ。
 最高のパワーを持ちながらその重量をハンディとしていたホンダF1は、デリック・ホワイトの設計によるシャーシによってライバル達に20キロ程度重いという範囲におさまっていた。エンジンは川本の苦労の甲斐あって、450馬力とさらに増強されていた。
 RA301は予選7位であった。サーティーズが無理をしなかったためである。
 決勝では、ブレーキのフェードに悩みながらもレース中盤までに4位にあがった。
 56周目、前を行くフェラーリが燃料ポンプの不調によりリタイアとなり、サーティーズのRA301は、3位となった。
 74周目、RA301はギアシフト・リンケージを壊してしまい無念のリタイヤとなってしまった。

 1968年5月26日、モンテカルロの市街地コース80周で行われるモナコ・グランプリ。
 予選4位、12周目に2位に上がるものの、14周目にギアトラブルでリタイア。

 1968年6月9日、スパ・フランコルシャン・サーキット28周で争われるベルギー・グランプリ。
 予選4位であったが、サーティーズが無理をしなかったためである。
 決勝では、スタートから上手く飛び出し2台のフェラーリに続いて3位。2周目には、2台を抜いてトップに立つ。8周目には、2位に30秒の差をつけ、3分30秒5というコース・レコードを樹立する。この記録は、その後何年も破られなかったという。
 しかし、10周目、後輪のサスペンションのマウントが外れ、リタイアとなった。

 1968年6月23日、ザントフォールト・サーキット90周で争われるオランダ・グランプリ。
 デフロック(ZF製?)の調子が悪く予選9位と振るわず、本戦もタイヤ選択ミス(途中から雨)。コニのダンパー破損。ACジェネレータの破損で、50周でリタイアとなった。

 このとき、日本では、RA302の発表に備えて、スタッフたちが最後の仕事をしていた。


2001年4月5日:本田宗一郎物語(第106回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、その他

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