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2001年4月5日:本田宗一郎物語(第106回)

 1968年6月30日、空冷F1RA302は、ロンドン郊外のサーティーズのガレージに着いた。佐野と久米が一緒だった。
 中村が久米に言った。
 「お前ら何しに来た」
 「何って、きまってるじゃないですか。空冷をフランス・グランプリに出すんですよ。東京から連絡が入っていると思いますが」
 「あきらめた方がいいな」
 「どうしてですか」
 「エントリーしてないからさ」
 「えっ!」
 「エントリーしてあるのは車一台、ドライバー一台だ」
 「……中村さん、そりゃまずいですよ」
 「まずいも何も、俺は空冷のことなんか知らんし、面倒みるこはないんだ」
 「ちょと待ってくださいよ。それじゃおやじさんが」
 「F1をやっているのは俺だ。おやじじゃないんだ」
 「そ、そんな」
 「いいか、俺は勝つためにF1やってるんだ。お前達がもっと水冷エンジンを早く作ってくれてさえいたら、鈴鹿でもすこしテストできていたら、勝っていたかもしれないんだ」
 「中村さん、レースに、デモ・シカはないですよ。勝てなかったのは中村さんのマネージメント能力の問題でしょう」
 「言いたいこと言っていろ。俺は空冷にはタッチしない。いいな」
 「わかりました、今すぐ、おやじさんに電話して、中村さんが言った通りに伝えます。F1は即刻中止になるでしょうね。中村さんも解任ですよ」
 「ちょっと、待て」
 「何ですか?」
 「じゃあ、お前、空冷がレースで勝てると思ってのか?」
 「思ってはいませんよ。でも、おやじさんには空冷もやるから、という条件で今年も引き続きF1をやる許可をもらったいきさつを忘れないでくださいよ」
 「知らんな」
 「ま、また何言うんですか。実際問題として東京の研究所の支援がなければF1活動はできないんですよ」
 「……」
 「何とかしてくださいよ」
 「よし、シルバーストーンのコースでテストをしようじゃないか。サーティーズの運転でな。その結果がおもわしくなければ、それを理由にフランス・グランプリには出せないことになった、ということにすればいいじゃないか」
 「マシンの性能が悪くて出せない、というのは開発した僕の立場も……」
 「じっさい、走りもしないマシンを作っただけならまだしも、ここに運んできたのもお前だろ」
 「……」

 東京への報告は、シルバーストーンで走らせてから、と自分に納得させて、久米は佐野とRA302にオイル・クーラーを取り付ける作業にとりかかった。

 1968年7月2日、シルバーストーンでRA302はシェイク・ダウンが行われた。
 久米は、あらかじめサーティーズにエンジンをあまり回さないように、連続して長く走らないように頼んだ。
 形だけのテストだった。
 RA302に2周目に、1分32秒5のタイムを出した。もちろん去年RA273で、サーティーズの予選タイム1分27秒2に及ばなかったが、久米は正直驚いた。立ち上がりは、見た目にも速かったのである。佐野も喜んだ。もちろんタイムは悪い。しかしそれはサーティーズが本気で走っていないことこ、自分があまりエンジンを回さないでくれと頼んだためだ、と久米は思った。もしかして、このエンジンがちゃんともったらけっこういい線いけるのではないか、さすがおやじさんの目の付け所はいいな、と佐野と話した。こんなことなら耐久性についてもっとおやじがらアイディアを受ければよかった、とも思ったが、まあ、これでとにかく一区切りだ。

 東京には、エントリーは1台、ドライバーはサーティーズだけになってる。空冷は水冷に対して5秒も遅いからサーティーズは、空冷には乗らないといっている。したがって、RA302はフランスにはもっていかない、と連絡した。
 東京からは、とにかくフランスの会場には持っていき、記者発表と練習走行だけでもするように、と中村と久米は言われた。
 「まあ、話題性があるのは確かだし、注目を浴びればおやじさんも満足してくれるだろう」
と、久米は思った。中村もフランスに運ぶことについては文句は言わなかった。


2001年4月6日:本田宗一郎物語(第107回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、「F1地上の夢」朝日い文庫

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