Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年4月1日:本田宗一郎物語(第102回) RA300がホンダF1に2つ目の優勝をもたらした1967年が宗一郎やホンダにとって、どういう年だったにかをまとめておくことにしよう。 1月 RA273が、南アフリカ・グランプリで3位となる 3月 N360の販売が開始される 3月 トヨタの車4車種が、アメリカ排出ガス浄化装置基準の合格第1号となる 4月 革新都知事美濃部都政がスタートする 4月 スーパーカブが生産累計500万台を達成する 5月 マツダがロータリーエンジン搭載車コスモスポーツを発表する 5月 N360が軽自動車販売台数でトップとなる 6月 オランダ・グランプリで、ロータス49がデビュー・ウィン それは、コスワースDFVエンジンのデビュー・ウィンでもあった 6月 TTレースで、250cc、350cc、500ccクラスで優勝する 7月 イギリス・グランプリでRA273が6位入賞。中村がローラ・ホンダRA300の開発に着手 8月 RA273が、ドイツ・グランプリで4位になる。RA273最後のレース 9月 RA300が、イタリア・グランプリで優勝する 10月 アメリカ・グランプリではRA300はリタイア、続くメキシコ・グランプリでは4位に入り、ホンダはF1ワールドチャンオンシップで4位となる この年をもって、ホンダはTTレースの参戦を中止する。 この年、日本の自動車の生産台数が、西ドイツを抜き世界第2位となる。 1967年(昭和42年)11月、1968年用のF1エンジンの設計者が任命された。二人だった。後にホンダ3代目の社長となる久米と、4代目社長となる川本である。 川本は水冷エンジン、久米は空冷エンジンだった。 二人は、箱根にホテルをとってそこにこもることになった。 「さあ、やるとするか。お前は水冷、俺は空冷だ」 川本が久米に聞いた。 「空冷なんて、うまくいくんですか」 「わからん、おやじがやれ、と言っているんだ。やりませんというわけにはいかんだろう」 川本の設計は順調に進んだ。しかし、久米は製図板を前にうなるばかりだった。 空冷F1のシャーシは佐野が担当していた。彼は、座席後方にあるエンジンに、どうやって空気を送り込むかに頭を悩ませたが、すぐにいいアイディアが生まれた。それまでのF1は、燃料をハンドルの後ろ側、前輪の前に置いていた。つまりドライバーの太ももの上である。したがって、ドライバーの脇には、ガソリンを通すパイプがはしっていた。この空間を使って、空気を後方に流そう、と佐野は思ったのである。そのため、燃料タンクを座席後方に置くことにした。また、エンジンをシャーシーの下に吊り下げて、なるべく空気に触れるようにするために、バックボーンと呼ばれる支柱を座席の後方に設けたのた。 このデザインは、このマシンが発表され時、注目を浴びた。以後今日にいたるまで、F1のガソリンタンクは座席の後方に置かれるようになったのである。佐野が考えたエンジンの搭載方法は、フェラーリに引き継がれることにもなるのである。 出来上がったシャーシを宗一郎が見にきたときのことである。 佐野が工夫した点を説明すると、宗一郎は満足そうにうなずいた。 佐野が、 「苦労した甲斐があって、規定重量の500キロよりかなり軽くできました」 宗一郎の顔が一瞬にして変わった。 「誰が軽く作れと言った!」 「……」 「機械はな、頑丈さが大切なんだ。ほら、ここだ、ここを太くしろ。ここもだ」 「……」 「いいな。もっと補強するんだ。500キロを越えろとは言わん。どうせ錘をのせなきゃいかんことになるなら、きちとんと補強をするんだ」 「……」 「わかったな!」 「はい」 といったことはあったものの、佐野の設計は順調だった。が、久米の方はそうはいかなかった。 2001年4月2日:本田宗一郎物語(第103回) につづく 参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、その他 Back Home Mail to : Wataru Shoji |