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2001年3月31日:本田宗一郎物語(第101回)

 宗一郎の空冷F1の悲劇を語るためには、1967年のホンダのF1活動に触れておかなければならない。

 本来撤退する予定だったので、1967年用に新しいマシンやエンジンを開発する時間はなかった。そこで、久米が設計し実績を収めたF2用のエンジンを手本にして、入交が1966年用に開発したF1エンジンに改良を施してに使うことになったが、このエンジンは、400馬力を誇ったものの、その重量は220キロもあった。ちなみに1966年にチャンピオンになったブラバムのエンジンレプコは、330馬力、170キロであった。
 ここにも宗一郎の影があった。機械は頑丈でなければならない。
 エンジンだけではない、シャーシも同様である。当時のF1の規定重量は510キロであったが、ホンダのRA273は、700キロ以上あったのである。

 それでも、1967年の開幕戦で、サーティーズは、予選6位からスタートして、3位入賞してしまうのである。さすがワールド・チャンピオンであった。また、サーティーズが元オートバイ・レーサーであり、ピーキーなエンジンを常に8000回転以上に保つ腕を持っていたからだ、という人もいた。
 その後、エンジンやギアボックスのブロックは、アルミニウムからマグネシウムに変えられ、40キロ軽量化されたが、それがまたトラブルの原因となった。マグネシウムが冷却用の水と反応して、水素ガスを発生してしまうことが後からわかったのである。

 この年、コスワースからV8のエンジンがデビューした。馬力は380馬力であったが、エンジン重量は、150キロと軽く、形状もコンパクトであった。このエンジンを搭載した、ロータス・コスワースは、デビュー戦で、2位のブラバムに23秒の大差をつけあっさりと優勝をさらった。以後15年間、コスワース・エンジンがF1界をリードすることになるのである。

 これにショックを受けた中村は、暖めていた計画を実行に移すのである。
 ロンドン郊外のサーティーズのガレージに、7月東京から佐野が呼ばれた。佐野は、ホンダのRA272のF1シャーシを手がけたエンジニアである。
 中村、サーティーズ、佐野の前に、ローラ社から届けられたローラT90があった。アメリカのインディー・カー用のシャーシである。1ヶ月で、このシャーシにホンダのエンジンとF1用の足回りをセットするのが、中村の計画であった。ギアから後輪へ出力を伝える最終ユニットであるデフロックも、ドイツ製のZFが使われることになった。 もちろん、宗一郎には内緒であった。
 8月には久米もこの作業に参加する。

 中村の秘密計画進行中に、ドイツ・グランプリとカナダ・グランプリがあった。二つとも欠場するわけにはいかなかった。そこで、大西洋を渡らなくてはならないカナダを欠場することにした。RA273の最後のレースは、ドイツ・グランプリとなった。
 1周23キロ程のニュルブリクリンクは、アップダウンと細かなカーブが多いコースである。RA273の重い車体にはきついコースであった。予選トップのジム・クラークのロータス・コスワースの8分4秒1に対して、サーティーズのRA273は8分18秒2の6位であった。
 決勝では、一時8位まで順位を落としたものの、上位陣のパンクやマシントラブルによる脱落によって、RA273は、4位となった。
 重い重いと中村がこき下ろしたRA273ではあったが、終わってみれば、1966年のイタリア・グランプリから9レースに出場して、4度の入賞。 完走率は45パーセントであった。宗一郎が言い続けた壊れないマシンによる確実性がそこにはあったのである。

 1967年9月、中村によってRA30と命名されたローラ・ホンダが完成した。
 RA300は、RA273の初期型に比べて110キロ軽い、610キロであった。それでもロータスにくらべ100キロは重かった。中村は、V12の重いエンジンを恨めしく思った。
 現地イタリア・モンツアサーキットに運び込んでから、左フロントの強度不足が判明した。スペアカーとして持ち込んだRA273を走らせてみたものの、1分31秒を切れなかった。ロータス・コスワースのジム・クラークは、軽く1分30秒を切っていたのである。
 アイルランドの溶接の名人によってRA300の補修が徹夜で行われた。
 そのマシンに乗って、サーティーズは、1分30秒3を出し、予選9位となった。トップから2秒落ちであった。
 1967年9月10日、モンツァ・サーキットで、イタリア・グランプリの決勝が行われた。

レースは、マーシャルのミスによる混乱のうちに始まった。
 最初に飛び出したのは、ブラバム、ガーニー、ヒルであった。
 しかし、4周目に、クラークのロータス・コスワースがトップにたった。同じ頃、ガーニーはエンジン・トラブルでリタイヤとなった。セカンドグループは、スチュワート、マクラーレン、エンモン、リント、サーティーズであった。
 9周目、トップのクラークのタイヤがバーストし、ピットに入り、15位となった。サーティーズは、直線を利用して、スチュワート、マクラーレン、エイモンを抜いて4位となっていた。
 周回遅れとなったクラークは、チームメートのヒルのために、ヒルとブラバムの間に割って入った。
 順位は、ヒル、(クラーク)、ブラバム、リント、サーティーズである。
 その後、ヒルとクラークはペースをあげ、ブラバムに50秒以上の差をつけた。
 クラークはさらにペースをあげ、54周目には、4位まで挽回した。
 順位は、ヒル、ブラバム、サーティーズ、クラークである。
 ところが、その直後、ヒルのコスワース・エンジンが最終コーナーでブローし、オイルを撒きちらし、リタイヤとなる。
 順位は、ブラバム、サーティーズ、クラーク、リントである。
 それを知ったクラークは、その周に、サーティーズを抜き、
 ブラバム、クラーク、サーティーズ、リントとなった。
 さらに、クラークは次の周でブラバムを抜き、再びトップに躍り出る。
 クラーク、ブラバム、サーティーズ、リントの編隊飛行が続く。
 残り3周、サーティーズが勝負に出て、ブラバムを抜き、
 クラーク、サーティーズ、ブラバム、リントとなる。
 最終ラップ、クラークがガス欠状態となり、
 サーティーズ、ブラバム、クラーク、リントの順になる。
 最終コーナー手前のブレーキ合戦は、車体の軽いブラバムに軍配があがり、
 ブラバム、サーティーズ、最後コーナーを終えようとしていた。
 しかし、ブラバムは、ヒルが撒いたオイルを斜めに横切ったために、テールを流し、
 オイルを直角に横切ったサーティーズがインからブラバムをかわして、前に出た。
 しかし体勢を立て直したブラバムは、サーティーズの真後ろに着き、ゴール前での勝負に出た。
 サーティーズはコックピットに深く沈み込み、5速へのシフトアップをせず、4速のままアクセルを踏み続けて祈った。もってくれよ。
 1万2千回転のレットゾーンを遥かに越えてホンダエンジンは回り続け、サーティーズを裏切らなかった。
 2メートルの差であった。

 劇的な優勝であった。
 その年のモーターショーでは、N360の横で、このシーンが何度となく流された。
 ホンダF1の2勝目であった。

 東京で、このエンジンを分解調査したところ何の異常もみられなかったという。機械は頑丈でなければならないという宗一郎の信念に救われていたことを語り継ぐ人は少ない。

 この優勝を宗一郎は喜ばなかった。が、同時に、中村の独走に、思ったほどには怒らなかった。宗一郎の頭には、空冷F1を颯爽と操るサーティーズの映像があったにちがいない。


2001年4月1日:本田宗一郎物語(第102回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、その他


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