Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年3月22日:本田宗一郎物語(第92回) ここで、話をF2にもどそう。 ジャック・ブラバムからきつい皮肉を言われ、コスワースのエンジンに換えると通達されてから2ヶ月半が過ぎていた。 イギリス・グランプリの監督代理としてイギリスに来ていた川島に、久米は相談にのってもらいたくて、自分のホテルに誘った。夕食をとりながら、久米は、話した。 「もう、僕はどうしたらいいのかわからない」 「……」 「河島さん、僕は首でもくくりたいですよ」 河島の顔色がかわった。 河島は、ナイフとフォークをガシャリとテーブルに置くやいなや、 「黙って聞いてりゃ泣き言ばかりいいやがって。首くくりてえだと? よし、首くくれ。どうせお前一人じゃ死ねねねえいだろうから、俺が足を引っ張ってやる。外を見ろ! いい松が見えるだろう! さあ!」 「……」 「どうした、くくるのか。くくらねえのか」 久米は、返事をせずレストランからでていって帰ってこなかった。 翌日、河島は久米に起こされた。 「あ、あの、僕がヒースローまでお送りしますから」 「おお、生きてたか」 「勘弁してください、河島さん」 久米の運転するレンタカーは、ウイスキーの臭いがぷんぷんしていた。その車の中で、河島は、言った。 「来年用のF2エンジンの構想は、こっちで練ってしまえ。おやじさんの前ではしにくからろうからな」 「……」 「日本に帰ってから設計する時もホテルにこもってしろ。おれがおやじさんを説得しておく」 「……」 「秋には、笑って帰ってこい」 久米は落ち着きをとりものし、F2エンジンの改良に着手した。 ピストンに特殊合金を使い、ピストンリングを2本に減らし軽量化に努めるとともに、をれに耐久性を加味させた。 この改良型エンジンを積んだブラバムF2は、9月26日のフランス・グランプリの出場した。河島が日本に帰ってから2ヶ月が過ぎていた。 予選は、1位であった。 決勝のスタートで、ブラバムはミスをし、5位まで落ちた。 しかし、5周目までに、他のマシーンを次々の抜き去り、2位に上がった。残るはロータス・コスワースSCAを操るやジム・クラークだけとなった。 13周目からは、クラークとブラバムに一騎打ちとなった。逃げようととするクラークをブラバムはぴったりとマークした。逃げ切りを図るクラーク。しかし72週目に、ブラバムは予選タイムを上回るコースレコードをたたき出し、一歩もひけをとらないばかりか、いつでも抜けるぞと、クラークを牽制する。 二人の決着は最終ラップ(85周目)まで持ち越された。 ブラバムが最後のチャンスにかけ追い越しをかけた。が、勢い余ってスピン。 体勢を整えて再度追いかけをかけたが、結果はクラークに遅れること0.6秒の2位であった。 それがブラバム・ホンダF2の初完走であった。 この感触をつかんだ久米は、来期1966年型のF2エンジンの構想をイギリスで立てたのである。 2001年3月23日:本田宗一郎物語(第93回) につづく 参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、「F1地上の夢」朝日い文庫 Back Home Mail to : Wataru Shoji |