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2001年3月23日:本田宗一郎物語(第93回)

 1965年10月3日、ニューヨーク州のワトキンスグレン・サーキットでアメリカ・グランプリのスタートが近づいていた。スタンドには宗一郎がいた。生涯で初めてのホンダ車が出るグランプリ観戦であった。

 ホンダF1チームはこのグランプリ用の特別仕様車USバージョンのRA272を3台持ち込んでいた。考えられる改善はほとんど行ったものの、鈴鹿サーキットでのテストでは、思った程の効果が見られなかった。問題点を煮詰め、改善する時間はその時にもう無く、アメリカに送られてきた3台であった。社長の前で、リタイヤだけはしたくない、とスタッフ達は時間の許す限り部品の点検、組み立ての点検を何度も行った。
 ギンサーは、今までバックナムが乗っていたイタリア仕様のマシンを選び、バックナムは新しいUS仕様のマシンを選んだ。
 予選で、ギンサーは、グラハム・ヒルに遅れること0.15秒、ジム・クラークに遅れること0.05秒の3位であった。バックナムは、12位であった。
 今にも降りそうな空模様のなかスタートが切られた。スタートとほぼ同時に雨が降り始めた。そのせいか、せっかくのポジションを確保したギンサーがスタートでそれを活かしきれず。3台のマシンに先を越されてしまった。
 ジャッキー・スチュワートは、足回りを壊し、ジム・クラークはピストンを壊しリタイヤ、と大物達が姿を消していった。完調ではないものの、ギンサーは10位、バックナムは13位を走っていた。
 30周あたりから雨が激しくなり、スピンする車が多くなった。重い車体、ハイパワーは雨のレースには不利にはたらく。ブレーキはかかりにくく、ハイパワーはグリップを無くすからである。
 しかし、ギンサーは、40週目に9位に、60周目には8位、80周目には7位と雨の中、着々と順位を上げていった。残り30周で、前を走るヨヘン・リントのクーパー・クライマックスを捉えれれるかに思われたが、結果は7位で、入賞とはならなかった。しかし、バックナムも13位フィニッシュとなったために、初めて2台完走ということになった。せめておやじさんの前で、二台ともリタイアはしなくない、というクルーの願いはかなったのである。

 5年間続いた1500ccのF1は、第1戦を残すのみとなった。3週間後である。
 宗一郎は、
「絶対に勝つのだ、と信念を持つことだ。そうすれば、しなければいけないことが見えてくるはずだ」
と話した。
 若いスタッフがおずおずと口を開いた。
「僕達は、もっといい部品をと、ぎりぎりまで開発を続けてます」
「……」
「しかし、組上げてテストをする時間が、あるいはテストをしてデータを取っても、それを活かす時間が無いのです。マシンを最終調整する時間と場所を確保してください」
「ああ、いいじゃないか。やってみろ」
「……」
「やりたいんだろ、ならやってみろ」
「あの、どこで」
「次は、メキシコだろ、メキシコのサーキットを貸し切ってそこでテストしたいんだろ。お前、今そう言ったじゃないか」
「は、はい。でも……」
「それができれば、勝てるんだろ。勝つために知恵を絞るということはそういうことだ。俺はそういったことを期待しているんだ。いいか、メキシコのサーキットを貸しきって、調整をしろ」

 ホンダは、最後のレースにマシンを3台用意した。燃料噴射装置の改良も施した。そして、予備のエンジンとしてオーバーホールをしたエンジンを東京からメキシコへ送った。
 そして、実際に、公式予選は始まる3日前から、コースを貸し切ったのである。そこには、絶対に勝つんだ、という意気込みがあった。宗一郎のその意気込みは、クルー全体にみなぎった。監督を依頼され断っていた中村も、今回は、自ら志願して監督となった。
 こうして1965年10月24日、メキシコ・グランプリが開幕しようとしていた。


2001年3月24日:本田宗一郎物語(第94回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、その他


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