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2001年3月19日:本田宗一郎物語(第89回)

  本田宗一郎物語(第89回)

 二年目のシーズンを迎えたF1チームも、同じヨーロッパの地で苦しみにもがいていた。
 初戦の南アフリカ・グランプリは欠場し、この年初めて参戦した第二戦のモナコでは、ギンサーもバックナムもドライブ・シャフトを破損してあっさりとリタイア。だが、改良型のRA272を駆って、続くベルギーではギンサーが初完走し、六位入賞まで果たした。通算五戦目にして初のグランプリ・ポイント獲得である。ホンダ・ピットは優勝したような騒ぎになった。しかし、これにもケチがついた。新監督の関口が正式エントリーを忘れていたため、あやうく失格になりかけたのである。このときピットには、レースを気にしてわざわざベルギーまで駆けつけた、前監督・中村良夫の姿があった。
「何がうっかりしてただ、ふざけるな! レースをやるってのはそんなもんじゃねえだろうが!」
 中村はクルーの面前で関口に罵声を浴びせ、チームのスタッフですらない立場にも関わらず、レース事務局へと足を向けた。中村の交渉で事なきを得たものの、ホンダF1チームの若さを露呈しまったことに変わりはなかった。
 ぎくしゃくした雰囲気は、チームの志気にも影響する。次のフランス・グランプリでも、ホンダF1は二台そろってのリタイヤとなった。今度は電気系統にトラブルが出た。

「ヨーロッパくんだりまで出かけて、あいつらは何をのそのそやってやがるんだ!」
 フランス・グランプリの結果を知らされた宗一郎は、ここに来て、ついに怒りを大爆発させた。その身は、激怒にふるふると震えていた。
「河島を呼べ。とにかく呼んでこい。いいから今すぐここに呼ぶんだ!」
 研究所を離れ、埼玉製作所の所長をつとめていた河島喜好は、宗一郎、藤沢に次いで今やナンバー・スリーの立場にあった。上からのプレッシャーと下からの突き上げで、神経をすり減らしかねない地位である。だが、河島は違った。昔から宗一郎には怒鳴られ続けていたが、一見不条理にみえる宗一郎の怒りの中に真理を見ることができたし、自分には理解できないことに対しては、宗一郎の判断を信じることができた。それゆえに、中村や久米や川本より幸せであったし、宗一郎や藤沢も、そんな河島を頼りにしていた。その結果として、河島は、研究所やホンダの全スタッフから最も頼りになる人物と思われていたのである。
 今回もまたいきなり呼び出されたが、それが宗一郎から期待されているからこそであることを、河島は十分承知していた。
「二年目になったっていうのになんで勝てないんだ!? エンジンのパワーは相変わらず他を圧倒してるっていうじゃないか。それなのにどうして勝てない? おい、何か言え。応えろ!」
 部屋をぐるぐると歩き回りながら言い募る宗一郎に、河島は淡々とことばを返した。
「フランスでは入賞しましたが……」
「レースは勝って初めて意味を持つんだ。勝とうとすることから初めて学べるんだ」
「……」
「いやいや、お前にそんなこという必要はなかったな。オートバイでは連勝だったからな」
「……」
「俺がいいたいのは、どうして連中は、同じミスを繰り返すのか、ということだ。そこから何も学ばんのか」
「それは、社長のおっしゃる通りだと、私も感じています」
「お前だ、お前が監督をすれば、とっくに優勝していたな、きっと」
「……」
「そうだ、お前、監督になれ」
「嬉しいお話ですし、個人としてはお引き受けしたいのですが、会社を守るのも重要な仕事です」
「そうか、お前は本当に立派だ。わかった。監督はあきらめよう。だが、ヨーロッパへ行って、現場をみてきてくれ」
「……」
「行ってくれるな」
「わかりました。行かせていただきます」
 七月十日に開催されるイギリス・グランプリは、二週間後に迫っていた。

 チーム内がぎくしゃくしているのは、F2チームも同じだった。ホンダ・エンジンに見切りをつけたジャック・ブラバムは、エンジンの性能向上に久米たちの懸命の努力を横目に、今もコスワースを使いつづけていた。フランスでおこなわれたテスト走行に顔を見せた中村と久米の間で、大喧嘩が始まったこともあった。きっかけは技術上の些細なことだったが、
「何度もレースをやってて、てめえはそんなこともわからないのか。馬鹿野郎」
 そんな中村の悪態に、ストレスのかたまりと化していた久米はカッとなり、思わず怒鳴り返していたのである。
「人のことばかり言わないでくださいよ。中村さんだって、勝った経験はないじゃないですか!」
 こうなると技術論も何もなく、互いに罵声をぶつけあうだけである。ざらざらと後味の悪い思いだけを残して、久米と中村は右と左へ別れて行った。当然ながら、テストの結果も芳しいものではなかった。

 F1のイギリス・グランプリが近づいていた。代理監督として河島が合流すると、チームには重く緊迫した空気が流れた。宗一郎の指令によって河島が送り込まれたことは、全員が承知していた。チームの状況をざっと把握すると、河島は思いきった荒療治に出ることにした。
「ロニーは車から降ろせ。ドライバーはリッチーひとりでいい」
 チームの力をいま一度束ね、ファースト・ドライバーのギンサーのみに集中させるためだった。河島はバックナムを呼び、事情を説明した。やや悲しそうな顔を見せたものの、バックナムは黙ってうなずいた。次に河島はクルーを集めて、緊張した顔また顔をぐるりと見回した。
「このやり方で予選の結果がまずかったら、俺が責任をとる。みんなはそれぞれの仕事をきっちりやってくれ。頼んだぞ」
 河島の胸に、熱い渦のようなものが巻き起こりつつあった。オートバイのレースを指揮していた頃に幾度となく体験した、体の芯が溶けていきそうな感覚である。サーキットに広がる揮発性の空気を、河島は胸の底まで吸い込んだ。


2001年3月20日:本田宗一郎物語(第90回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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