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2001年3月20日:本田宗一郎物語(第90回)

  本田宗一郎物語(第90回)

 イギリス・グランプリ決勝当日、シルバーストーン・サーキット。ホンダのクルーは、誰もが一言も発せず、その光景を見つめていた。スタートを目前にしたホンダRA272は、フロント・ローに位置を占めていた。
 河島が最初に行なったことは、チーム内の暗い雰囲気を一掃することであった。スタッフに自信を与え、全ての責任は自分が取るから、各自の仕事をノビノビとして欲しいと伝えた。さらに、指揮体系を整理し、全ての決断を河島自身がきっぱりとスタッフに伝えるようにした。そして、一台のマシン、一人のドライバーに精力を集中させるためのワン・ドライバー体制である。プライドを刺激され、発奮したギンサーは、トップのジム・クラークからわずか0秒5落ちのラップ・タイムを叩き出し、予選三位につけたのである。ホンダとしては無論、初の快挙であった。
 コース幅の広いシルバーストーンは、横四列隊形でのスタートとなる。二位のグラハム・ヒル、四位ジャッキー・スチュワートの間に堂々と割って入ったホンダ製のマシンをじっと見るうち、河島の胸の奥に熱い波が立った。
「おやじさん、待っててください。優勝をプレゼントしますから」
 河島がつぶやくのと同時に、レースがスタートした。ギンサーは猛烈な飛び出しを見せた。最初のコーナーに入る前に他の三人を抑え、トップに躍り出たのである。スタンドは騒然となった。早く、このままレースが終わればいい。車の影が走り去ったホーム・ストレートを見つめ、河島は祈るような思いになった。勝利を待ちこがれる宗一郎に、優勝の二文字を届けたかった。喜びに輝く、子供のような宗一郎の笑顔を見たかった。
 だが、早くも次の周回で、その願いが遠のいてゆくのを河島は知った。ギンサーは二位に落ち、RA272のエンジンは異常な、なにか苦しげな音を発していた。河島の腹が、すうっと冷えていった。明らかなミス・ファイヤである。ギンサーは二度ピット・インし、12本のプラグを換えて、二度飛び出して行った。三度目にピットに入ったとき、三度目のピット・アウトはなかった。ホンダのイギリス・グランプリは、二十六周で終わった。

 宗一郎の怒りは、今や沸点に達していた。
「次のオランダで勝てなかったら、全員ヨーロッパから引き上げさせろ」
 シルバーストーンの結果報告に現れた研究所の所長をぎろりとにらむと、宗一郎は食いしばった歯の間からそう命じた。

 オランダ・グランプリも、ワン・ドライバー体制で臨んだ。ギンサーは、予選でロータス・クライマックスのジム・クラークと同タイム、ポールポジションのグラハム・ヒルから0.3秒差の2位につけた。スタートで飛び出したギンサーのRA272は最初の2周をトップで走った。しかし3週目にクラークに抜かれた。エンジンの出力が低下したためであった。その後2回のスピンで順位を7位まで落としたが、エンジンが不調となったサーティーズのフェラーリを抜き6位となり、さらに5位のブラバム・クライマックスに乗るデニス・ハルムに迫ったが、あと一歩というところでチェッカーを受けた。結局6位入賞で1ポイントを取得した。しかし、スタッフは日本に呼び戻されたのだった。

 スタッフを前に、宗一郎は檄を飛ばした。
 「来年からは、新しいレギュレーションが施行される。現行のレギュレーションでのレースは、ドイツ・グランプリ、イタリア・グランプリ、アメリカ・グランプリ、メキシコ・グランプリの4戦だけだ。どうしても、現行のレギュレーションで優勝しておきたい。しかし今のままでは、無理なようだ。だから、次のドイツグランプリは欠場して、二ヶ月後のイタリアグランプリにかける。一から出直すつもりで、二ヶ月間でできるだけのこと、いや勝つためにしなければならないことを全てやれ」

 宗一郎のいないところで、若いスタッフが河島に尋ねた。
「どうしておやじさんは、勝ちにこだわるんでしょうか。冷静に考えれば、来年の新レギュレーションのマシンを今から開発した方がいいと思うんですよね。残りのたった三戦のためにどうして総力をあげるのか僕にはわからないんです。それに、二言目には、オートバイの連中を見ろです。二輪用のエンジンと四輪用のエンジンでは特性だって違うのにです」
 じっと耳を傾けていた河島は静かに話し始めた。
「おやじさんの、勝て勝てという言葉から、おやじさんが勝つことに固執していると思うのは間違っているな。自ら課した課題を自ら設定した期限内に達成するために知恵を出し工夫をしろ、ということなんだ。だから一つの間違いから何かを貪欲に学ばない姿勢が嫌いなんだ。それと、君達四輪のスタッフは、すぐに四輪は二輪と違うというが、おやじさんは、二輪と同じエンジンを作れといっているわけではないんだ。二輪の連中は何のお手本もないところから世界一になり、それを守っているんだ。その姿勢を学べといっているんだ。二輪の連中は、GPマシンは市販バイクとは違うとか、スーパーカブとは違うなと言わないぞ。君達は、そういった類の愚痴を言っていることになるんだよ」

 目標のイタリア・グランプリは9月12日。クルーは、日本の家族と会うこともままならず、帰国したその日から研究所に泊まり込んで、F1マシン大改造の作業を進めることになった。
 操縦性能を高めるために低重心化が図られることになった。エンジンの搭載方法の変更、排気管の取り回し方の変更、冷却水の経路変更、モノコック・シャシーの構造変更、ノーズカウリングの形状変更、テールカウリングの形状変更。
 結果的に、エンジンの搭載位置は、10センチも低くなった。エンジンの出力も高められ15HPのアップがなされただけでなく、中低速でのトルクの増加も図られた。操縦性能も改善され、ブレーキのバランスも向上した。このマシンは、RA272改と呼ばれるようになった。
 このRA272改は、鈴鹿サーキットに持ち込まれギンサーによってテストが行われた。これまでのレース経験からのノウハウを活かして整備性も向上していた。しかし、タイムは思ったより上がらなかった。
 時間が欲しかったが、イタリアに搬送しなければならない期限は過ぎていた。


2001年3月21日:本田宗一郎物語(第91回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社、その他

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