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2001年3月17日:本田宗一郎物語(第87回)

  本田宗一郎物語(第87回)

 昭和40(1965)年が明けた。
 まだ正月気分の抜けきらぬ1月のある日、冷たい風の吹く鈴鹿サーキットには、久米と川本をはじめとするF2のスタッフ、真新しいブラバムのシャシー、そしてレーシング・スーツに身をつつんだジャック・ブラバムの姿があった。
 ホンダF2は、初のテスト・ランに臨もうとしていた。ジャック・ブラバムがマシンに乗り込み、エンジンのスイッチを入れる。爆発するように噴き上がるその音を確かめるように聞き、満足そうにうなずいてから、ブラバムは鈴鹿のコースへ飛び出して行った。久米も川本も、自信と期待で胸がはちきれそうだった。
「ジャックのやつ、腰を抜かしますよ。すごいエンジンじゃないか、ってね」
「目を回さなければいいけどな」
 二人はそんなことをささやき、笑い合った。ホーム・ストレートを駆け抜けるブラバムのマシンを見るたび、その思いは確信へと変わっていった。マシンは、見たこともないほどのスピードで、スタッフの目の前をあっという間に過ぎて行ったのである。
 ブラバムは、サーキットを数周回り、やがてピットへと帰ってきた。久米も川本もわくわくしていた。ジャックがコックピットから降り、ヘルメットを脱いだ。
「きみたちはグレート・ジョブをやってのけたよ」
 そんなことばを二人とも待っていた。だが、ブラバムは険しい表情でこう言った。
「可能性は認める。だが、このエンジンはレースには使えないな」
 二人とも、そしてスタッフの全員が愕然とした。
「だって、ストレートのスピードはあんなに―」
「それが私のいう可能性だ。唯一のな。だが、他の点はすべてコスワースのエンジンの方が上だ」
「では、僕達のエンジンは、不採用ですか」
「開幕戦は、3月20日だ。それまでに改善できるなら、君達の可能性にかけてみてもいいが、やる気はあるのかね」
「も、もちろんです。やらせてください」
「じゃ、燃料システムを見直してくれ。エンジンの回転に、ガソリンの供給が追いついていないのかもしれない」
「では、使っていただけるのですね」
「一応はそのつもりだ。だが、私の判断で、好きなときにコスワースのエンジンに積み替えることができる、という条件付きだ」
「わ、わかりました。使い続けていただけるよう頑張ります」
「そうしてくれ」

 イギリスのシルバーストーンでの開幕は3月20日。それまでの2か月間、F2チームは燃料システムの変更に追われた。四連キャブレターをホンダ製の燃料噴射装置へと切り換えたのである。
 キャブレターからホンダ製インジェクションへ。それはF1のRA271がたどった経緯と共通する道のりであった。F2のスタッフがそれを知らなかったわけではもちろんない。しかし久米や川本には、自分達はF1のスタッフとは違うという気持ちがあった。それが、F1での経験を素直に受け継ぐことを拒否していたのである。宗一郎が発案したホンダ製の燃料噴射装置は、中村達が思っていた以上の効果を発揮していたのだった。このとき、コスワースエンジンは、ツイン・キャブレター・システムを採用していた。
 久米と、改良型のF2エンジンがイギリスへと旅立ったのは、開幕10日前の3月10日。川本は、後方支援部隊として日本に残った。

 ブラバムのシャシーにホンダ・エンジンを載せた、ブラバム・ホンダF2マシンがようやく姿を現したのは、開幕二日前の18日のことであった。ぶっつけ本番で初めてのレースを迎えざるをえない状況も、RA271とまったく同じだった。
 だが、ここで両者の運命は大きく分岐する。その原因となったのは、人の英知の届かぬ領域での出来事であった。シルバーストーンは経験したことのない大雨に見舞われ、レースそのものが流れてしまったのである。
「ツイてるぞ」
 久米は思った。だが、4月3日に開催された次のオウルトン・パークでのレースで、ブラバム・ホンダはポール・ポジションを獲得したローラ・コスワースのマシンから7秒以上も遅いタイムの、予選最下位という屈辱的な位置から決勝を戦うことになった。正確には、ジャック・ブラバムにとって屈辱的なスタートだった。初のF2参戦となるホンダに対し、ジャック・ブラバムは二度もワールド・チャンピオンに輝いていた男であった。F1と日程がずれているため、他のF1ドライバーの顔も目立った。当然、多くの観客がつめかけてもいた。そうしたなか、ジャックは淡々とマシンに乗り込み、淡々とスタートを切った。
 結果は悲惨なものだった。十七周目に入ったとき、オーバーヒートでエンジンが壊れてしまったためであった。この失敗もF1で経験済みであった。
「すごいエンジンを作ってくれたね。君達は、F1での貴重な経験を僕のためには使ってくれないようだな」
 車から降りると、ブラバムは笑いもせずに皮肉を飛ばした。久米は黙ってうつむくしかなかった。
 チャンピオンドライバーが全くレースにならないのを知りつつも、データをとるために自分達のエンジンを回しつづけてくれたことに感謝しつつも、屈辱のあまりに、お礼の言葉も言えなかった。


2001年3月18日:本田宗一郎物語(第88回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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