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2001年3月7日:本田宗一郎物語(第77回)

  本田宗一郎物語(第77回)

 「おい、どういうつもりだよ。これじゃ路面のショックやバイブレーションがまともにエンジンに伝わっちまうじゃないか。回転がおかしくなったらどうするんだ?」
 モノコック・シャシー担当のチーフ・エンジニアである佐野は、エンジンの設計者たちから猛反発を受けていた。
 佐野は、幅のあるRA271Eを載せても、シャシーの幅がライバル達と同等になる方法を考え抜いた挙句、エンジンをシャシーに載せるという常識を捨てたのである。つまり、エンジンそのものをシャシーの一部と考え、そのエンジンに対して、コックピットと前輪の足回りからなるボディーの前半を取り付け、後輪用の足回りは、直にエンジンに取り付けるというアイディアを思いついたのであった。
 「大丈夫ですよ、だってエンジンは丈夫なんでしょう」
 「お前はエンジンのこと知らんだろう。路面からくる振動のことを強度計算に入れてないぞ」
 「じゃあ、路面からくる振動のことも強度計算に入れてくださいよ。さもなければエンジンを小さくしてください」
 「なに、このやろう」
 「僕は、おやじさん的ないい発想だと思いますが」
 「おい、佐野、おまえ、本当に生意気だな」
 「なんとでも言ってください。おやじさんに怒鳴られるよりましです。僕は、おやじさんに幅の広くないシャシーを作れと言われているんです」
 「……」
 実は、佐野の考えたこの方法、つまりエンジンを車体の一部と見なす方法は、後にF1の主流になるのである。

 パリのコンコルド広場前にあるFIAでは、国際スポーツ部を訪ねた中村が頭をかかえていた。日本のナショナル・カラーを中村自らが決めなければならなかったのだ。たとえばイギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルーというカラーリングが設定されていた。中村の悩みは、宗一郎が切望したゴールドを使えないことにあった。
「絶対ゴールドだぞ。場合が場合なら、金箔を使ってもいい。頼んだぞ」
 宗一郎の望みはあっさりと退けられた。ゴールドは、南アフリカ共和国のナショナル・カラーとしてすでに認められていたのである。
 第二候補はアイボリー・ホワイトであった。国際スポーツ部の事務局長は難色を示した。
「ドイツのジャーマン・シルバーと紛らわしいねえ……」
 ここで中村は万事休したのである。そのとき、事務局長がぱちんと指先を鳴らした。
「フロント・ノーズに日の丸を入れたらどうだろう。すぐに日本車だとわかるぞ」
 第三候補は用意していなかった。中村はそれに決め、日本に至急電報を打った。初代ホンダF1の象徴ともいえる、まことに印象的なカラーリングは、こうして決まったのである。

 日本では、佐野の受難がなおも続いた。
 実戦用のF1マシン、RA271が完成したのは、6月半ばのことであった。最終的な組み上げが近づくと、組み立て室は人、人、人で埋まった。プロジェクト・チームの人員はもちろん、製作に何も関わっていない研究所のスタッフや職員たちまでが続々と集結したのである。日本で初めて、しかも自分たちの研究室で作られたF1マシンを一目見ようと、誰もが胸をときめかせていた。
 エンジンにモノコックのボディが付けられ、そして後輪を支えるサスペンションが取り付けられた。最後にタイヤがつけられた。
 日の丸が鮮やかであった。
 一同が宗一郎を迎えた。
 全員が、宗一郎に注目した。
 「な、何だ、これは!ばかやろう! 犬小屋みたいな車を作りやがって!」
 宗一郎の視線は、まっすぐ佐野に向かって据えられていた。
 思わずうつむいた佐野の脚が、恐怖で細かく震えた。佐野としては、六本のエキゾースト・パイプが上方を這う巨大なエンジンを形のままに覆っただけである。だが、前方からのスマートなボディの流れから、突然不格好に盛り上がるエンジン部分は、犬小屋といわれても仕方がなかった。マシンの美しさを台無しにしていたのだ。
「こんな車を人前に本気でさらす気か? お前はそれでも技術屋か! 今すぐ直せ!」
 宗一郎の剣幕に、黒山の人だかりはいつの間にかくずれ、ぱらぱらと消え、やがて残っているのは宗一郎と数人のスタッフだけになった。佐野はうつむいたまま何も言えず、宗一郎は激怒の表情を変えなかった。ぎりぎりになって、またしても設計変更であった。

 佐野は開き直った。必要な部分以外のカウルは切り外し、全体を覆うことをあきらめたのである。意外なことに宗一郎はそれで納得したのであった。
 エンジンが大きくてどうしようもない、と文句ばかり言っている連中とは違って、そういった制約のなかで、次々と新しいアイディアを出してくる若いエンジニア佐野を、宗一郎は内心頼もしく思っていた。佐野はそのことを知らない。
 皮肉なことに、佐野が考えたこの方法も、後のF1に継承されるのである。

 RA271を鈴鹿に運ぶ時間はなかった。荒川の直線コースを何往復か走らせただけで、走行テストは終わりになった。7月12日、やれるだけのことをやった彼らは、胸を張って、初めてのホンダF1をヨーロッパへと送り出した。
 最初の目的をクリアした研究所には、ほっとした空気が広がった。それはやがて、ぽっかりと穴のあいたような虚無感に変わっていった。あれほど苦しめられたRA271が研究所から姿を消したことに、残されたスタッフの全員が埋めようのない寂しさを味わっていた。


2001年3月8日:本田宗一郎物語(第78回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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