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2001年3月6日:本田宗一郎物語(第76回)

  本田宗一郎物語(第76回)

 宗一郎はすべてに完全を求め、どんな小さな点も見逃さなかった。今や恒例となった早朝のパーツ点検は、厳しさと烈しさを一段と増していた。宗一郎の逆鱗にふれるたび、設計者たちは怒鳴りつけられ、設計変更を命じられた。それが連日繰り返されたのである。
 しかも宗一郎は、金属でがっちりと作られた機械を何よりも好んだ。
「お前らは機械を作っているんだぞ。機械は機械のように作れ!」
 これもチームには災いした。燃料タンクやオイルパイプのジョイントは、テフロン製のホースにステンレス・ワイヤが巻かれた、おそろしく頑丈なものだった。航空機用の部品だったのである。燃料タンクに至っては、ジェット戦闘機のF104用に作られた九層構造のものが持ち込まれ、エンジニアたちは腰を抜かした。これは何とか二層にしてもらったが、それでもなお、ぺらぺらと薄いヨーロッパのF1タンクに比べると、板のように厚く硬かった。
 あるとき、若いエンジニアが中村に聞いた。
「あの、わからないんですが」
「なんだ?」
「おやじさんは、F1で本当に勝ちたいんでしょうか?僕達がやっていることは、日々、勝つことから遠のくことのように思うのですが」
「俺もそう思う。日本工業界の未来のためと、F1に勝つことは、俺は両立するとは思っていないよ」
「では、どうしたらいいんでしょう?」
「俺は、勝ちにいく。いいな」
「はい」
 実は、第1期F1参戦の悲劇は、このときから芽生えていたのである。

 シャシー製作の他にも、問題は山積していた。その一切が、チーム監督である中村良夫の両肩に重くのしかかった。
 ロータスとの提携が破綻した直後、まず中村が着手したのはドライバーの選択であった。当然のことながら、F1を操れるドライバーは国内には一人もいなかった。F1の下にF2、F3というフォーミュラ・クラスを持つヨーロッパのレース界に人脈もなかった。中村はロスアンジェルスのアメリカ・ホンダを通じてレーサーを探すことにし、現地スタッフの最終的な推薦を受けたロニー・バックナムという若手の有望ドライバーと契約した。
 次は整備基地だ。F1は世界中を転戦するレースだが、当時の日本は東洋の小国にすぎず、いわば地球の僻地であった。航空便を駆使しても乗り継ぎに次ぐ乗り継ぎで、ヨーロッパのチームに比べて圧倒的な不利は否めない。マシンの細かい整備や改良は、海外に基地を置くしか手がなかった。これには、ホンダの早くからの海外進出が役立った。昭和37年に、ベルギーのアロストに日本メーカー初の海外生産工場を建設していたのである。中村は、その工場の一角を使わせてくれるように頼んだ。
 タイヤとブレーキは、当時F1に独占的に供給していたイギリスのダンロップ社に問い合わせ、即座にOKが出た。その頃のダンロップは、航空機用のディスク・ブレーキをはじめ、ブレーキ部門でも名を馳せていた。ダンロップのレース部長が、ラリーを通じて中村と旧知の間柄であったことが幸いした。
 シャシーの開発は遅れていた。5月10日の第一戦、モナコ・グランプリは最初から出走をあきらめ、中村は7月11日のイギリス・グランプリに出場を予定していたが、それももはや危なかった。計画を変更し、中村は8月2日のドイツ・グランプリに照準を合わせることにした。開発スタッフにとっては、すべてが8月2日のためにあった。

 ドライバーのロニー・バックナムが来日したのは昭和39年3月。到着を待ちかねて、スタッフはRA270Eを搭載したメタリック・ゴールドのテスト用シャシーを勇躍、鈴鹿サーキットに持ち込んだ。
「わ、速えー!」
「さすがにプロだなあ」
 サーキットを試走するバックナムを見て、全員が歓声を上げた。当然であった。テスト用のマシンは何度か鈴鹿で走らせていたが、そのときハンドルを握っていたのは、こともあろうに、監督の中村をはじめとする、チーム内の運転好きの連中だったのである。
「はー、1コーナーにはああやって飛び込むのか」
「すげえな、あんなところでドリフトしてやがる」
 彼らは無邪気に喜んだが、バックナム本人からしてF1マシンを操るのは生まれて初めてである。調子がいいのか悪いのかも把握できず、さしたる成果は得られなかった。そもそも現役のF1ドライバーが他のマシンで鈴鹿を走ったことがないのだから、ラップ・タイムも残されていない。戦闘力を比較しようにも、その対象が存在しないのだ。
 それでもよかった。ドライバーが決まり、その姿を実際に目にしたことは、スタッフを大いに勇気づけたのである。

 このあとバックナムはいったん帰国し、5月初旬に開催された第二回日本グランプリ自動車レースに出場するため再来日した。ホンダF1チームの雰囲気やクルーたちに少しでも馴れておいてもらおうという中村の苦肉の策である。バックナムは、このレースのGT−1クラスで、前年のS500に次いでホンダが発表したS600を駆り、見事に優勝。ホンダの四輪をレースで優勝させた初のドライバーとなった。
 レースが終わると、中村は実戦用のF1マシンの完成を待たず、バックナムと二人でヨーロッパへ向かった。FIA(国際自動車連盟)との交渉や、各国グランプリの主催者への申し込みなど、やっておかねばならないことはまだまだ残っていた。その代行者たるべきJAF(日本自動車連盟)は、発足したばかりで何の役にも立たない。何から何まで自分たちの手でやらないと、ホンダはF1に向かって前進することすらできなかったのである。


2001年3月7日:本田宗一郎物語(第77回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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