Ws Home Page (今日の連載小説) 2001年2月28日:本田宗一郎物語(第70回) 本田宗一郎物語(第70回) 通産省の建物をあとにした宗一郎は、八重洲に向かった。 「おい、受付嬢がなかなか中に入れてくれなかったぞ」 「そりゃ無理ないな。社長とはいっても本社には近寄りもしないんだからな。年中研究所に入りびたりでな」 と、身を揺すって豪快に笑う藤沢を見て、宗一郎はホッとした。俺はコイツと一緒にやってきたんだ。そう思うと、今まで感じていた憤りが、ウソのように静まった。 「で、なんの用だい。社長みずから血相を変えて俺に会いにくるなんて、普通じゃないからな」 「ああ」 宗一郎は、事務次官の佐橋との会談の様子を手短に語った。じっと聞いていた藤沢は、落ち着いた声で宗一郎に訊ねた。 「うちにはトヨタや日産にひけをとらない輸出実績がある。それをまったく考慮しないというんだな?」 「そうなんだ。しかも、四輪メーカーはその日産・トヨタだけで十分だといわんばかりの口ぶりだったな」 「そうか」 「そうか、だけか?ずいぶん落ち着いているじゃないか」 「ははは」 「ははは、じゃないぜ。何か奇策でもあるのか」 「うちの会社にはな、本田宗一郎という気違いがいてな」 「おいおい、もったいをつけるなよ」 「本田宗一郎が本気を出せば何でもできるんだ。世間の奴らはその恐ろしさを知らないがね」 「で、いったい俺に何をしろっていうんだ?」 「トラックでもなんでもいい、大急ぎで車を作ってくれ」 「そ、そうか、既得権か。わ、わかった。また来る!」 宗一郎は、受付嬢にジョークを飛ばして、本社を後にした。 「藤沢の奴」 中村良夫をはじめ緊張する技術スタッフに向かって、宗一郎は強い口調で、会社の置かれている状況を説明した。一刻も早く車が欲しいという宗一郎の言葉に、全員が闘志を燃やした。 宗一郎の至上命令を受け、四輪車の開発はすさまじい勢いで進められた。まさに尻に火のついた状態で多くのプロトタイプが生まれては捨てられた。一応実用化のめどが立ち、これならいけそうだ、と研究所員は、そのプロトタイプ車を宗一郎に見せることになった。 「なんだ、この不細工な車は。俺の想像しているのと全然ちがうぞ!」 宗一郎は怒り始めた。そのプロトタイプは、シトロエンの2CVに似た軽自動車であった。宗一郎を最も怒らせたのは、そのエンジンであった。低回転型の2気筒だったからである。 「誰だ、こんなエンジンを作ったのは! もっと、ましなエンジンはないのか」 そう怒鳴る宗一郎に、ある研究員が、おずおずと答えた。 「500ccのスポーツカー用のエンジンならある段階にきていいるのですが、8000回転で回るDOHCなので、とても……」 「よし、それでいくぞ。それを360ccに作り変えろ。DOHCのままでいいぞ」 「しかし、……」 「しかし、じゃない。エンジンはそれで決まりだ。車体は他に無いのか?」 「500ccのスポーツカーはまだ、完成の域には・・・・」 「他には?」 「あの、軽トラックなら」 「スケッチを見せてみろ」 「は、はい」 「よし、このトラックでいくぞ」 「エンジンは?」 「さっきの、DOHCだ、あれを360ccにしたやつを使う」 「あの、軽トラックに、スポーツカーのエンジンをですか?」 「ははは、まあ、いいじゃないか。ホンダの第1号車としてふさわしいとは思わんか?まあ、500ccのスポーツカーが先だったらよかったんだが。スポーツカーの方も急いでくれよ」 こうして生まれたのが、ホンダ社初の四輪車T360であった。それは国産初のDOHC搭載車でもあった。と同時に世界初のDOHCエンジン搭載のトラックだった?かもしれない。 そのT360は昭和37年6月に発表され、同時に軽四輪スポーツカーのS360も華々しく登場した。S360の完成披露は鈴鹿サーキットでおこなわれ、美女を隣に乗せて宗一郎自らがハンドルを握るという逸話を残したが、もともと、その年のモーターショーに出品するため、わずか数台しか作られなかった車である。S360はまもなく、幻の名車と呼ばれる運命をたどることとなった。 当時、難しいといわれたスポーツカーにあえて挑んだのは、技術に対するホンダのパイオニア精神を世に問うためであった。当然ホンダが初めて手がける分野であり、スポーツカーは技術的にも未解決の問題を多く含んでいた。だからこそ、宗一郎はチャレンジ・スピリットをかき立てられたのである。本命のS500ccの商品化は、翌年に迫っていた。 2001年3月1日:本田宗一郎物語(第71回) につづく 参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他 Back Home Mail to : Wataru Shoji |