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2001年3月1日:本田宗一郎物語(第71回)

  本田宗一郎物語(第71回)

 宗一郎は、藤沢への約束通り、最短で販売できる車を仕立て上げた。
 一方、藤沢には、秘密にしていた奇策があった。それは、消費者が会社を選別すべきであって、国ではない、という宗一郎の理念にそったものだった。「これで国は口出しできまい」と藤沢は一人ほくそえんだ。
 その奇策とは、 全国六十一紙の全面広告を使ってクイズを打つことであった。内容は、『さて、ホンダが発売する四輪車S500のお値段は?』、であった。これには、五百七十四万通という途方もない数の応募が殺到した。ハガキがさばききれず、整理して抽選するための機械をホンダ自らが開発しなければならないほどだった。昭和38(1963)年6月のことであった。
 この反響の大きさには、通産省の役人も驚きを隠せなかったという。それが多少は功を奏したか、ホンダに四輪車を駆け込み生産させた特定産業振興法案は、同年の通常国会であえなく廃案となった。その後の成否は、ホンダをはじめ、現在の自動車業界の業績が雄弁に証明している。

 昭和38年の後半は、宗一郎と本田技研にとってまことに輝かしい季節となった。10月、スーパーカブならびにスポーツカブが、世界の優秀品としてフランスのモード杯を受賞。それを祝うように、ホンダは小型スポーツカーS500を発売する。宗一郎が期待した通り、この車は若者たちの垂涎の的となった。本格的なスポーツカーを、時代が待望していたのである。
 続く11月には、鈴鹿サーキットで、日本で初めての世界GPが開催され、50cc、250cc、350ccの3クラスに優勝したのである。それはホンダが名実ともに世界一の二輪車メーカーとなったことを意味していた。
 前年の勢いをそのままに、翌昭和39(1964)年1月には、マスコミ各社を本社に集めて、とてつもない構想を明らかにした。
「わが社はオートバイで世界を制覇しました。オートバイの次は四輪です」
 昭和39(1964)年1月のことである。宗一郎が続けて発したことばに、つめかけた報道陣は驚倒し、愕然として声を失った。
「今後はF1グランプリレースに出場し、優勝することを目標に掲げて、鋭意研究・開発を進めていきます!」
 フォーミュラ1。ヨーロッパを発祥の地とする、モータースポーツの最高峰。その扉を、日本企業としてはもちろん初めて、しかも最も後発であるホンダが叩き、開こうというのである。
「なぜF1なんですか?」
 質問が飛んだ。宗一郎は即座に応えた。
「わが社は、四輪を始めたばかりですが、目標は最初から世界一です、だから、技術的に最も厳しい条件が要求されるF1に挑もうということです」
 一瞬のち、静まり返っていた発表会場には、おおーッという、低い怒号にも聞こえる興奮の声と当惑のささやきが交錯した。目を輝かせ、色めきたつ記者もいれば、宗一郎の発言の意味がわからず、きょろきょろと周囲を見回す者もいる。
 無理もなかった。日産はオースチン、いすゞはヒルマン、日野はルノーと、日本の多くのメーカーがヨーロッパの四輪メーカーの車をライセンス生産していたこの時期に、こともあろうに究極の四輪レース、F1に挑戦しようというのである。
「出場はいつを予定されているんですか?」
 誰もが、数年先を予測していた。マン島のT・Tレースへの出場宣言から、実際の参戦までに数年を要したことは全員が憶えていたのである。しかし宗一郎は、さっと報道陣を見渡すと、きっぱりとした口調で告げた。
「今年からです」
 会場は一瞬静まり返った。誰もが聞き違いをしたと思って、宗一郎の次の発言に神経を凝らした。
「本年の第一戦、モナコ・グランプリから参戦します」
 報道陣はどよめいたが、それ以上の質問をできる者は誰もいない。当時の自動車後進国・日本には、本場ヨーロッパで開催される世界最高峰のレースなど高嶺の花、あるいはいっそ無縁のものであった。F1に関する詳しい知識を持ち、質問を浴びせることのできるジャーナリストはその場に一人もいなかったのである。
 互いの情報を探り合ってざわつき、やみくもにフラッシュだけを光らせる報道陣の前で、宗一郎の胸はこれ以上ないほど高ぶっていた。
 「とうとう、言っちまったな」
 宗一郎は、一人つぶやいた。
「俺は、この日を待っていたんだ」
そう思った。そして数々の思い出が、記憶が浮かんでは消えた。
「たまんねえ……なんていい匂いなんだ……」
 青い煙を吹きながら村を走る自動車。初めてガソリンの芳香をかぎ、気が遠くなるほどの陶酔を覚えた少年の日。自分はそこから少しも変わっていないような気がした。
「な、何をやってるんだ、あの車は……!」
 多摩川で自動車レースに挑み、車外に放り出されて重傷を負ったこともあった。いつでもあの日の自分に戻れるように思えた。
 だが、なんと遠くまで俺は来たことか。自分の手で四輪車を作る夢は実現した。次は、四輪で世界一だ。俺はこの手で、ついにF1に挑もうとしているのだ……。

 宗一郎が感無量の思いにひたっている頃、本田技術研究所では、RA271Eと呼ばれる巨大なV型12気筒エンジンが、テストベンチで早くも唸りを上げていた。いかに宗一郎とはいえ、実現の見込みのない構想を公にしたりはしない。F1プロジェクトはすでに一年前から静かに動き出し、初めてのホンダF1エンジンはロータスに供給されることまで決定していたのである。本田技術研究所を未曾有の大混乱に陥れる電報がイギリスから届くのは、それから間もない真冬の日のことである。


2001年3月2日:本田宗一郎物語(第72回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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