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2001年1月29日:本田宗一郎物語(第40回)

  本田宗一郎物語(第40回)

 昭和24年秋の、風の強い日であった。東京・阿佐ヶ谷の街を宗一郎は歩いていた。向かう先は竹島弘の自宅である。宗一郎と、竹島が先だって顔を合わせていた人物を引き合わせる手筈が、この日、ようやく整っていた。
 紹介は、あっさりしたものであった。
「本田君、こちらが藤沢君だ。戦時中、僕が中島飛行機にいたときに知り合った。営業の才能は抜群だよ」
 藤沢と呼ばれた男を、宗一郎はまじまじと見つめた。眼鏡の奥の眼光は鋭く、鼻も口も大きい、いかつい顔の男である。しかし表情全体は柔和で、いっそ人なつこいほどの印象を宗一郎に与えた。今度はその藤沢に向かって、中島は言葉を継いだ。
「前にも話した通り、こちらの本田君は作り出すものはすごいんだが、金にならなくて困っている男だ。君たち二人が手を組めば、まさに鬼に金棒だ」
 宗一郎に、藤沢に関する事前の情報はないに等しい。だがその顔を初めて見たときから、どんな相手か詮索しようとする気持ちは宗一郎から消えていた。おれの持っているものを使いきってくれる男だ。宗一郎はそう直感していた。
「初めまして、本田です」
「藤沢です。あなたに会うのを楽しみにしていました。浜松にすごい男がいる、そううかがっていましたから」
「資金作り、お願いできるのですか?」
「僕自身に金はありません。でも、あなたの技術のためならそれにふさわしい額の金を作る自信はあります」
 明治43(1910)年生まれの藤沢はこのとき三十八歳。宗一郎より四歳年少である。どっしりと構えた居ずまいは、それを超えた落ち着きと茫洋たる風格を放っていた。
「わかりました。それなら、これを預かっていただけますか?」
 そう言って、宗一郎は鞄から取り出した会社の実印を、藤沢の前に置いた。当然のことながら、実印を預けるということは、一切を委ねるということである。自分が生み出し取得した特許にすら固執しない、という覚悟でもあった。藤沢は、顔色一つ変えなかったが、本田という男の度量が自分の想像以上であったことに感動していた。
「お預かりしましょう。ただし、一つだけ、言っておきたいことがあります」
宗一郎は、藤沢の顔を見据えた。
藤沢は、おもむろに、
 「僕と別れるときは損はしませんよ。損といっても金のことではありません。互いに何か得るものを持ってお別れできるということです。あなたにはそれを与えてほしいと思うし、僕自身もそれを作っていきたいと思います」
と言った。宗一郎は、間髪を入れずに、
「わかりました」
と答えた。
 互いに目をそらさずに話す二人を黙って見比べていた竹島は、ここでようやくほっと息をつき、満面に笑みを浮かべて言った。
「よし、決まりだな。黄金のコンビの誕生というわけだ」
 竹島の言葉は、未来を正しく予言していた。宗一郎はこの日、ついに終生のパートナーと出合ったのであった。この日を境に、宗一郎が会社の実印に手を触れることは、社長職を辞するその日までついに一度たりともなくなる。
 宗一郎は、藤沢から目を離さずに続けた。
「僕は技術屋です。金のことはすべて任せますが、何を作るかということに関しては、いっさい制約を受けたくないのです」
「わかりました。あなたがいちばん仕事のしやすい方法を僕が講じましょう」
「それから、交通手段というものは、形は変わっても永久になくなるものではありません。でも箪笥や洋服を売るのとは違って、これは人間の生命に関わることだ。その点に何より留意したいと僕は考えています」
「素晴らしいお考えです。あなたは社長だ、僕はあなたの言うことを守ります。僕はお金のことはすべて引き受けますが、今期いくら儲かるとか、来期いくら利益が出るとか、近視的なものの見方はしないつもりです」
 宗一郎は、我が意を得たりとばかり、にっこりと笑って応えた。
「それはそうだ。お互い、近視的な見方はやめましょう」
「それでは、僕にやらせてくれますか」
「よろしく頼みます!」
 二人はがっちりと握手をした。それは本田技研が、世界の空に高々と羽ばたくための、ふたつの完全な翼を手にした瞬間であった。


2001年1月30日:本田宗一郎物語(第41回) につづく




参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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