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2001年1月27日:本田宗一郎物語(第38回)

  本田宗一郎物語(第38回)

 本田技研初の本格的オートバイD型の開発中に、宗一郎は、社員達に、次のようなことを言っていた。
「お前ら、女を好きになったこたことがあるか?女を好きになったことのない奴には、味と潤いのある商品はつくれないぞ。好きな女に、美をもとめるこころが、商品にやわらかい味をつくるんだ!」
 そういった宗一郎の意識を反映してD型は、美しかった。宗一郎がこだわりを見せたタンクのエッジも、繊細なラインを無理なく全体のプロポーションに調和させている。膝当ての部分は金属が半曇りに処理され、やわらかな印象を付与していた。動的な力感のなかに、女性的なしなやかさが感じて取れた。当時のごつごつしたオートバイの中にあって、画期的なデザインだったのである。

 「それでは、わが社発のオートバイの完成を祝って、乾杯ッ」
 D型を輪になって取り巻く社員全員から、勝鬨のように威勢のいい乾杯! の声が口々にあがる。ぐい呑みで濁酒を一息に飲み干すと、宗一郎は一同に向き直った。
「いいか、みんな。近い将来、必ずや技術の時代がやって来る。戦争でぼろぼろになったこの日本を立ち直らせるのは、一にも二にも技術力しかないからだ。一切を技術の革新にかけて、これからも勉強して行こう!」
 一斉に、盛んな拍手と歓声がわき起こった。モノを作る人間にしか味わえない、高揚した達成感が全員を包んでいた。古参の従業員が、大将ッ、と宗一郎に声をかけた。
「オートバイの名前ですが、何てつけるんですか」
「そうですよ社長、名前ですよッ」
「名無しのままじゃかわいそうじゃないですか」
 同調した面々が、次々に口を開く。そのなかの一人が、ドリーム号というのははどうです! と声を張った。
「この国の、そして本田技研の将来に夢を託すオートバイじゃないですか」
「よおし。それで行こう。こいつの名前はドリーム号だ」
 2サイクル、98cc。本田技研工業株式会社の第一号オートバイ、ドリーム号D型は、こうしてこの世に生を享け、名を与えられたのである。

 生産が本格化するや、ドリーム号D型はたちまちベストセラーとなった。戦争の痛手から、人が、街が、ようやく脱しようとしていた時期に、オートバイの力強い走りとエンジン音、そして完成度の高いデザインは、まさに熱狂的に迎えられたのである。
 また昭和24年というのは、湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を得た年でもあった。国産のオートバイは、自信を取り戻しかけていた国民全体を鼓舞するような製品として受け入れられてもいた。時代が"夢"を待望していたのだ……。宗一郎、そして本田技研の技術者たちは、それを心から実感することができた。ドリーム号は、あらゆる意味で幸せな製品であった。

 そのドリーム型D号が人気を博していた頃、他社から発売されたあるオートバイが、世間の話題をさらっている。ライラックと名づけられたこのバイクは、優しげな名前に似合わぬ、画期的な技術、チェーンを用いず後輪に駆動するシャフト・ドライブを採用していたのである。これは当時、外国製のオートバイにも殆ど例を見ない高度な新技術であった。オートバイの故障といえば、チェーンに関わるものが多く、今風にいえば、メンテナンス・フリーを目標に置くものだった。
 そして、このライラックを世に送り出した人物こそ、丸正自動車社長、伊藤正。以前、宗一郎の経営するアート商会で右腕として鳴らした、"正公"その人であった。
「とにかく大変な評判ですよ。販売台数もドリーム号にどんどん迫っています」
 危機感を強める弁二郎に、宗一郎は開けっ広げの笑顔で応えた。
「そうかそうか。正公め、なかなかやるじゃないか」
 自分の近くに集まってくる技術陣や従業員は、宗一郎にとって等しく同志であった。そのうちの一人が、自社の製品を脅かすほどの力をつけてきた。それを宗一郎は、警戒も邪気もなく虚心に喜んだのである。
 宗一郎が、かつての部下伊藤の勇気に大いに刺激され、技術革新の重要さをあらためて胸に刻んだことは間違いない。そうした意味でも、伊藤は今なお、宗一郎の同志であった。


2001年1月28日:本田宗一郎物語(第39回) につづく




参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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