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2001年1月19日:本田宗一郎物語(第30回)

  本田宗一郎物語(第30回)

 重大な転機が訪れようとしている。
 空気の微妙な変化を知って渡りの準備を始める鳥のように、わが身の本能に近い部分で、宗一郎はそれを感じ取っていた。その感覚は、何かを作りたい、自分の手で作り出したいという宗一郎の思いに、危機感という熱風を送り込む作用をした。宗一郎が転業を決意するまで、長い時間はかからなかった。
 しかし宗一郎は、ひとつだけ重大な思い違いをしていた。アート商会は、宗一郎の意のままになる規模をとうに超え、宗一郎が想像していた以上の大きさに、いつの間にか成長していたのである。
「わしは反対だ。絶対に反対だ。繁盛している工場をたたむ理由などどこにもないじゃないか」
「その通りだ。この時期に転業するなんてとんでもないッ。どうかしたんじゃないのか?」
「そうとも。第一危険が大きすぎる。社長の一存で決められることじゃないだろう」
 修理工場をたたみ、ピストン・リングを製造する。ある日の会議で突然そう言い出した宗一郎は、重役たちから文字通り総攻撃を受けた。宗一郎は必死で抗弁した。
「これからは物資の統制がどんどん厳しくなって、色々な部品が不足してくるだろう。この際、思いきって製造業に切り換えるべきだ。それには材料が少なくてすみ、しかも値がいいピストン・リングが一番なんだ」
 ピストン・リングというのは、エンジン内の爆発ガスがもれないように取り付けられる、弾力性のある小さな金属の輪である。ピストンとシリンダー間の気密性を保つ一方で、両者の磨耗を抑えるという矛盾した働きを要求される精密な部品で、製造の困難さゆえ、当時、日本ではさほど研究が進んでいなかった。民間でもほとんど製造されていない。宗一郎は、そこに目をつけたのである。
「ピストンだかリングだか知らんが、とにかく反対だ」
「わしもだ。絶対に首を縦には振らんぞ。どうですか皆さん」
「ああ、オレたちもだ。そんな勝手なまねを許すわけにはいかないね」
 会議は解散となり、宗一郎がめざした製造業への転進の道はばっさりと断たれた。
「どうして……どうしてわかってくれないんだ……」
 いったん決心したとなると、まっしぐらに突き進まずにはいられない宗一郎である。その精神が受けたダメージはあまりに大きかった。会議から何日もしないうちに、宗一郎はひどい顔面神経痛をわずらってしまったのである。

 病院に通い、注射を打たれる。よく効くといわれる温泉があれば足を伸ばす。別の病院に行く。治らない。他の温泉に急ぐ。効き目はない。そんな日々がいつ果てるともなく続いた。宗一郎は病の苦しみを、生まれて初めて、骨身にしみて思い知っていた。
 転地療法を進められ、宗一郎はある温泉への長逗留を決意する。いい身分のようだが、宗一郎にすればため息まじりである。のんびりする、という言葉は、宗一郎の身と心のどこにも見当たらない。いわば、強制された温泉暮らしであった。あるいはそれが祟ったのか、快癒の兆しは一向におとずれなかった。

 発病から二か月が経過していた。
 湯につかりすぎて、半ばふやけたようになった宗一郎のもとに、アート商会の重役の一人である宮本才吉から電話がかかったのは、よく晴れた冬の日のことであった。
「大将。連中が、うんと言ったよ」
 それだけでわかった。宮本の声を、宗一郎は涙を流して聞いた。宮本は幾度か手紙を寄こし、「転業を認めるよう他の重役を説得中。静養しながら吉報を待ってほしい」と宗一郎に伝えてきてくれていた。いくぶんか気持ちはやわらいだものの、宗一郎の神経痛が癒されることはなかった。しかし、その間の宮本の頑張りが、さしも頑固だった重役たちを結局は説き伏せていたのである。
 それは劇的な瞬間でもあった。宮本の電話を置いて間もなく、あれほど宗一郎を苦しめた顔面神経痛が、嘘のように、跡形もなく治ってしまったのである。

 浜松に向かう車のなかで、病に苛まれた二か月を宗一郎はゆっくりと振り返ってみた。あれほどの苦しみはなかった。これで峠を越えたのだ……と。だが浜松では、病どころではない現実の苦しみが、ぽっかりと口を開けた暗く長いトンネルのように、宗一郎を待ち受けていたのである。


2001年1月20日:本田宗一郎物語(第31回) につづく




参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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