Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年1月20日:本田宗一郎物語(第31回)

  本田宗一郎物語(第31回)

 浜松に戻った宗一郎は、一時もじっとしていなかった。重役たちとの最終決議をすませると、ただちにアート商会を閉鎖。新たに『東海精機株式会社』を設立したのである。閉鎖といっても、五十人近い従業員の多くはそのまま東海精機に残った。彼ら全員の生活という大きな荷物を背負っての、向こう見ずともいえる再出発であった。
 自動車の修理業を続けたい者は、宗一郎のもとを去った。そのなかで『アート商会浜松支店』の看板を引き継いだのは、かつて四度にわたって工場を訪れて奉公を志願し、ついに宗一郎を説き伏せた川島末男であった。外したばかりの看板を宗一郎から差し出された川島は、唖然として言った。
「え? で、でも大将、正兄ィは……」
 順列からいえば、これも修理工を続ける先輩格の伊藤正が引き継ぐのが筋である。宗一郎は、傍らに立つ伊藤を見て、微苦笑しながら川島に応えた。
「こいつも頑固な野郎でな、アート商会の看板はどうしてもお前に、といって聞かないんだ」
 大将、わがまま言ってすみません、と、伊藤は悪びれずに言った。
「どうしても自分の力で修理工場をやってみたいんです。こればっかりは性分で……」
「というわけだ。末公、遠慮しないで受け取ってくれ」
「……大将、正兄ィ。こんなオレに……ありがとうございます」
 川島は深々と頭を下げた。このとき、独立独歩の道を選んだ伊藤が、のちに丸正自動車を築き上げ、宗一郎と覇を競うことになるのは先に述べた通りである。

 宗一郎は、新しい仕事に情熱のすべてを傾注した。ピストン・リングの構造を調べ上げ、まずは試作品作りである。その間に、弟・弁二郎を兵役に取られるという痛手もあったが、宗一郎はそれさえばねにして、研究開発の手を一瞬たりとも緩めなかった。だが……。
 結果はついてこなかった。何度作り直しても、思った通りの製品は出来上がらない。リングが割れる、シリンダーの壁が磨耗するなど、どこかに欠陥が生じ、それを矯正すると別の箇所がおかしくなる。毎日毎夜がその繰り返しだった。後に宗一郎自身が、生涯であれほど苦しんだ時期はなかった、と幾度も述懐するほどの失望と落胆の日々に、宗一郎は完全に陥っていたのである。ついには原因のありかさえ、宗一郎は見失った。原因がどこにあるのかわからない限り、それを解決することはできない。厚いコンクリートの壁の前に、小さいヤスリひとつを手にして立ち尽くしているような絶望感が、宗一郎を打ちのめした。そんな宗一郎を救ったのは、宗一郎があれほど忌み嫌っていた、学問であった。

 手がかりを求めて、鋳物屋をはじめあちこちを訪ね歩いた宗一郎が、最後に行き着いた先は浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)であった。大した期待は抱いていなかった。ひょっとしたら、という程度でリングの分析を依頼していたのである。だが研究室を訪れた宗一郎は、そこで愕然とすることになった。依頼を受けた田代教授は、こともなげに言ったのである。
「これはシリコンが足りませんね」
「何ですか、そのシリコンというのは」
「非金属元素のひとつです。これが入っていないと、ピストンが滑らかに動かないんですよ」
 宗一郎はしばらく口がきけなかった。そんなことも知らずに、おれはピストン・リングを作ろうとしていたのか……。次に口を開いたとき、宗一郎は田代に向かってこう叫んでいた。
「先生っ。私を聴講生にしてください!」
 基礎理論の知識のなさ、それゆえの弱さを、これほど痛感したことはなかった。現場の経験がすべてだと信じ込んできた宗一郎が、学問の尊さと意味の重さを初めて思い知り、その前にひれ伏した瞬間であった。
「いいでしょう。校長に頼んでみますよ」
「ありがとうございます!」
 すでに妻子を持ち、しかも五十人もの従業員をかかえた会社社長にして、三十歳の学生、本田宗一郎がここに誕生したのである。
 しかしそれは、宗一郎の新たな苦難の日々の始まりでもあった。ただでさえ多忙な毎日から学業の時間を割くのは、なまなかな覚悟でできることではなかった。学校から帰ると宗一郎はすぐに仕事に取り組み、夜中の二時、三時までをピストン・リングの研究に費やした。寝床は工場内の炉端である。床屋に行く時間も惜しく、髪は伸び放題、ついには妻のさちを工場に呼び、ハサミで髪を切らせながら仕事を続行する有様であった。
 それでもピストン・リング作りは、少しも進展しなかった。学校に通い始めたとはいっても、そこで学ぶことがすぐに現場の役に立つはずもない。アート商会時代に蓄積した資金も使い果たし、従業員の生活を支えるために、さちは質屋通いまで始めた。
 まさにどん底であった。歯を食いしばって耐える宗一郎を支えているのはただひとつ、「必ず成功するはずだ」という信念であった。


2001年1月21日:本田宗一郎物語(第32回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

Back
Home



Mail to : Wataru Shoji