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2001年1月17日:本田宗一郎物語(第28回)

  本田宗一郎物語(第28回)

 多摩川の河川敷には、レース用にチューンされたエンジンの咆吼が、耳をつんざく音量と圧力であふれていた。川面に立つ波も、その轟きが引き起こしたかに見える。二十台を超えるレースカーのなかで、宗一郎と弁二郎兄弟の駆る『カーチス号』はひときわ人々の目を引いた。いわゆる葉巻型のずんぐりとした車両であることに変わりはなかったが、鉄板を折り曲げたような他の車と違い、長いボンネットが柔らかな曲面で処理されていたからである。
「スマートなボディだね」
 そう話しかけてくる、ライバルのドライバーもいた。
「相当手がかかったんじゃないの?」
「生まれが鍛冶屋でね、そう難しくはなかったですよ」
 軽い冗談で会話を終わらせるつもりで、宗一郎は付け加えた。
「車も女と同じで、怒り肩よりなで肩の方がいいと思いましてね」
 相手は、にこりともせずに言い返す。
「なるほど。でも車は見てくれじゃないからね」
 カチンときた宗一郎も、思わず本気で切り返していた。
「外見はお上品だけど、こいつは相当根性もありますよ」
「ま、レースの終わりにはわかるさ」
 捨てぜりふを残して去る相手の背中を、宗一郎はにらみつけた。
「なんだよ、あいつは」
 兄さん、と弁二郎が牽制して声をかける。レース開始の時刻が近づいていた。宗一郎の闘志が、ガソリンが火の粉を浴びたように、ばっと燃え上がった。

 レースは、一周一マイル(約1,600m)のコースを六周して順位を競うというシンプルなものだった。宗一郎は、まずスタートで先行し、いったん先頭集団の中程に位置を下げて我慢しながら順位は落とさず、最終周で一気に勝負をつける作戦に出た。終始トップスピードで走ることができればレースほど簡単なものはない。だが、基本的な性能に大きな違いがなく、そこにエンジンの出力や耐久性の限界、積載する燃料の量、宗一郎たちも苦しめられたギヤ・レシオの設定など諸条件がからむと、どこかで駆け引きは必要となるものだ。カーチス号はエンジンのパワーとタフネスには自信があったが、問題はその重さと燃費効率の低さだった。そこで宗一郎は、あえてガソリンの量を減らして車体重量を抑え、飛び出しと最終ラップ以外はガソリンの消費を温存する走りを心がけることにしたのである。

 レースは、宗一郎の目論見通りの滑り出しを見せた。いきなり飛び出した宗一郎たちの車を、他車はあわててマークする。カーチス号がペースをゆるめると、先行する車も現れるがこれも作戦のうちである。互いに牽制して相手の出方を待とうとするうち、先行集団が大きく分裂しないままレースは落ち着きを見せ、するすると中盤過ぎまでが推移した。狙い通りの展開に、ゴーグルの下の宗一郎の双の瞳に不適な光が浮かぶ。ガソリンにも余裕があった。全車が次第にペースを上げながら、最終ラップに突入する。
「よおーし、ラスト一周だ。弁二郎、そろそろ行くぞおーっ」
 ストレートに入ったところで、宗一郎はこのレースで初めて、思いきりアクセルを踏み込んだ。勝負どころと見た他のドライバーも一斉にスロットルを全開にするが、カーチス号のパワーには遠く及ばない。他車をみるみる引き離しながら、宗一郎は雄叫びをあげた。
「さあ、一気にゴールだあーっ」
 最終コーナーをスムーズにこなせば、そのゴールが見える。はずだった。だが宗一郎たちの目の前には、故障車が噴き上げたらしい黒煙がもうもうとたちこめていた。カーチス号は、120kmに達しようかというスピードを落とさずに黒い煙を突っ切った。
その瞬間、弁二郎の喉から、切り裂くような悲鳴が飛んだ。
「に、兄さん、あれをッ!」
 煙が晴れたコースのすぐ先に、一台の車が停まっていた。問題はその位置だった。車は横腹をこちらに向け、カーチス号の進路の真正面をふさぐ形で動けずにいたのである。
 間に合う距離ではない。それでも宗一郎はブレーキを床まで踏み込み、力いっぱいハンドルを切った。衝突を回避できたかと思った瞬間、タイヤが相手のタイヤに接した。ボディには徹底した軽量化がなされているレースカーである。重いエンジンの入った前部を中心に、円を描くようにカーチス号のリヤが軽々と持ち上がった。と見る間もなく、宗一郎と弁二郎を乗せたままカーチス号はふわりと空を舞い、二人の身をコース上に振り落とすと、不意に見えない手に押しつけられたように、すさまじい破壊音とともに地面を叩いた。
 瞬時にして観客席が重く凍り付く。横倒しになったまま、なおも回り続けているカーチス号のタイヤに向かって、宗一郎は膝を立て、四つん這いになって近づいていった。
「べんじろう……く、くるまをなおせば、まだはしれる……ぞ」
 その顔面には鼻や口のありかもわからぬほどの血があふれ、眼だけがぎらぎらと輝いている。額から噴き出した血がその眼にかかった。視界が真っ赤に染まる理由もわからず、宗一郎は地面に倒れ込んでいた。


2001年1月18日:本田宗一郎物語(第29回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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