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2001年1月14日:本田宗一郎物語(第25回)

  本田宗一郎物語(第25回)

 顧客の心をつかみ、需要の追い風を受けたアート商会浜松支店は、昭和7(1932)年春、大きな成長の時期を迎えた。互いに競うように増加する仕事と従業員に対応するべく、宗一郎は近所に土地をもとめ、新工場を建築。車を持ち上げるオイル式リフトを一気に3台導入したのをはじめ、旋盤やボール盤といった工作機械を備えた。
 修理工の数も50人近くに達したが、人の入れ代わりが激しく、陣容はなかなか安定しなかった。宗一郎が、彼ら全員に修理工として最高のレベルを求めたためである。
「何だ、その手つきは。そんなネジの締め方じゃ車輪が外れちまうぞ、このバカヤロー!」
「間に合うと思いますだと、このバカヤロー! めし抜き徹夜をしてでも必ず間に合わせろ!」
「何度言ったらわかるんだ、それでも修理工の端くれか、このバカヤロー!」
 この、馬鹿野郎という罵声が工場を揺るがさない日は一日たりとてなかった。言っても聞かないと知るや、宗一郎は容赦なく鉄拳も振るった。修理工として比べられる相手が宗一郎本人なのだからたまらない。こと自動車修理となると烈火のかたまりと化し、しごきに近い鍛え方も辞さない宗一郎についていけない者は、工場から、あるいは宿舎から、ひっそりと去ってゆくしかなかったのである。

 それでもなお、いや、宗一郎がそうした苛烈な姿勢をつらぬいたからこそ、アート商会の勢いはとどまるところを知らなかった。同じ年の夏には、当時、国民的大歌手だった藤山一郎が、関西公演から東京への帰路、故障した自家用車の修理を名指しで宗一郎に依頼し、アート商会を来訪。浜松市民を興奮の渦に巻き込むという騒ぎも起こっている。
 上げ潮に乗ったアート商会浜松支店に、さらに弾みをつけたのが、宗一郎の弟・弁二郎の加入であった。宗一郎の跡を継ぐような形で東京のアート商会に奉公していた弁二郎は、修業を終えるとためらいなく帰郷し、兄の待つ工場へ直行したのである。

 人並みはずれていたのは仕事だけではなかった。酒を飲むとなれば芸者をあげ、玉代を惜しまずとことん遊興する宗一郎の名は、浜松の花柳界で知らぬ者のいないところとなった。モーターボートを製作し、若い工員たちを連れて浜松湖で乗り回すのも宗一郎の楽しみだった。楽しみとはいえ、モーターボートを研究し、自製するというのは仕事の延長のようなものであり、宗一郎の熱中ぶりは趣味の範囲を超えた濃密なものとなった。
 これらはすべて、宗一郎の身の深くに芽生えはじめていたある欲求が、別の出口を求めた結果だったのだが、それに宗一郎が気づくのはもう少し先の話である。


 昭和8(1933)年が明けて、時局は大きく転換しようとしていた。満州侵略に対する国際世論の矢面に立たされた日本は、3月27日、国際連盟脱退を正式通告。宗一郎の仕事からは遠く隔たった場所で起こったかに見えるこの一事が、のちに大きな影響を及ぼす。"世界の孤児"となった日本は自動車の国産化に突き進み、この頃から、現在のトヨタ、日産がいよいよ自動車の製造に乗り出すのである。

 一方で、この年は宗一郎に記念すべき慶賀を用意してくれてもいた。
「おーい、さち。吸気バルブを取ってくれーっ」
「ねえさん、すいませんがピストン・ピンもお願いしまーす」
「はあーい」
 工場に響きわたった明るく澄んだ声の持ち主は、磯部改め本田さち。宗一郎の妻である。
「吸気バルブにピストン・ピン、吸気バルブに……」
 さちは、早くも新婚三日目には工場の事務を手伝いはじめていた。当初は、何日も徹夜同然の日が続く夫の多忙さに唖然となったが、であればこそ内助の功を発揮しようと、大いに奮い立ったものだ。だが、
「吸気……吸気ピストン?……」
 パーツを収めた棚まで来てはみたものの、名前が指し示す物品も、どこにある何がどれなのかも皆目わからない。
「あなたーッ、わからないから来てちょうだーい!」
 結婚するまで自動車とは無縁であったさちには、無理からぬことであった。

 宗一郎に、実は家庭を持つ気はまだまだなかった。仕事と遊びを両の駆動輪に日々を激走していた宗一郎に、所帯を構えようなどという殊勝な気が起きようはずもない。今をときめくアート商会の経営者たる宗一郎に、見合いの話は次々に舞い込んできたが、宗一郎にとってそれらはわずらわしいだけだった。そんな宗一郎が、それまで見向きもしなかった見合い写真の一枚を、ある瞬間、何かに魅入られたようにふっと手にした、それが若いふたりの運命を決めたのである。宗一郎の、一目惚れであった。 写真のさちに夢中になった宗一郎は、実物見るべしとばかり、さちの実家のある磐田郡於保村(現在の磐田市下大之郷)に向かうという、いかにも宗一郎らしい行動を起こしてもいる。
 ともあれ宗一郎は、こうして、守るべき妻と家庭を持つに至った。が、だからといって、それまでの生き方を変えようとする宗一郎ではない。あるいは、結婚という、ある意味での通過儀式を経たことで、それまで以上に宗一郎は大胆になっていけたのかもしれなかった。


2001年1月15日:本田宗一郎物語(第26回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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