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2001年1月15日:本田宗一郎物語(第26回)

  本田宗一郎物語(第26回)

 なにか空しい。物足りない。
 宗一郎がそんな思いに取り憑かれるようになったのは、いつからだったか。
 仕事が行き詰まったわけではない。むしろアート商会は順調すぎるほど順調に業績を伸ばし、今では株式会社に成長を遂げていた。
 仕事中にまでぼんやりすることの多くなった宗一郎の変化に、最初に気づいたのは弟の弁二郎だった。椅子にかけ、ほうっとため息をつく兄に、弁二郎は思いきって訊いてみた。
「兄さん、どうしたんです」
「あ? ああ、弁二郎か。どうしたんだ」
「だからそれは僕のセリフですよ。何かあったんですか?」
 宗一郎はもう一度大きなため息をもらし、弁二郎の顔から視線を外して応えた。
「実はな……迷いはじめてるんだよ、この商売のことで」
「え。……でも、迷うって、何もかもうまく行ってるじゃないですか」
 このもやもやをうまく説明できるだろうか。そう案じながらも、宗一郎は弟の心配そうな顔に向かって、ゆっくりと話しかけた。
「何か物足りないんだ」
 一瞬目を見張り、何か言いかけたが、弁二郎は口をつぐみ、無言で先を促す。宗一郎はめずらしく眉を寄せ、つぶやくような調子で続けた。
「この仕事は、しょせん人様の作ったものを直すだけだ。つまり、どう上手く修理しても、元のもの以上にはならないということさ。それがどうもな……」
 なおも結ばれたままの弁二郎の口もとに、小さい笑みが浮かんだ。
「どうせ機械をいじるなら、自分で工夫して、考えて、この手で何かを生み出したくなった。そういうことになるかな……」
 弁二郎はここでようやく口を開き、兄さん、と呼びかけた。
「生意気を言うようだけど、兄さんの気持ち、わかるような気がします。なんていうか、修理するだけじゃなくて、何かを作ってこそ兄さんだと思う」
「何を作れっていうんだ?」
 戸惑う表情になる宗一郎に、弁二郎はあっさりと言った。
「エンジンとか」
 あ、そうか。
 弁二郎のことばを聞いた瞬間、自分が何に迷っていたのか、本当は何をしたいのかが、宗一郎にははっきりと見えてきた。宗一郎は、迷いのない笑顔になって言った。
「たぶん、それだけじゃすまないだろうな」
「まさか自動車を作るっていうんじゃないでしょうね」
 苦笑混じりに言う弁二郎の顔を見て、宗一郎は晴ればれとした声で答えた。
「いずれはな」

 やろうと決心したら、宗一郎の動きは速い。何日もしないうちに隣町の倉庫の一部を借り受けた宗一郎は、そこを簡単な作業所に作り直して、すぐさまエンジンの研究を開始した。その遠い延長線上に、世界で最もクリーンであると表彰されるエンジンが花を咲かせ、6年連続でF1チャンピオンの座に君臨するレーシングエンジンが実を結ぶことになる。狭い作業所で、今は油まみれになって古いパーツをいじっている宗一郎自身にも、予想すらできないことであった。
 だが、宗一郎がこの時期にめざしていたのは、現在に例えるならポルシェやフェラーリといった、一部好事家のためのスポーツカーではなかった。誰にでも買えて、多くの人の生活に利便をもたらす車、今でいうところの大衆車である。
 宗一郎は、のめりこむほど開発に打ち込むことを愛したが、自分が作ったものが誰かの役に立ち、その人の顔が驚きと感謝で輝く瞬間を目撃することはそれ以上に好きだった。宗一郎の天性の資質と呼ぶべきものは、実はそこにあった。宗一郎の出発点が、研究員ではなく、直接客と接することの多い修理工だったことは、決して偶然ではなかったのである。
 ただし、その資質は、この時はつぼみにもなっていない。宗一郎がそれを真に開花させるのは、まだまだ先のことである。

 エンジン、そして車に関する宗一郎の研究は休むことなく続いた。
 迎えた昭和11(1936)年初夏。宗一郎と弁二郎兄弟は、一路東京をめざしていた。高速道路などなく、道は未舗装である。それでも宗一郎は、かなりのスピードで車を操っていた。悪路に揺られ、大きいエンジン音に阻まれるなか、弁二郎が声を張りあげた。
「ねえさんのことが気にならないんですかあっ」
 このとき、宗一郎の妻、さちは、第一子の臨月を迎えようとしていた。
「男のおれが横にくっついてたって、どうにもなるもんじゃないだろう!」
 それを聞いて笑い出す弁二郎に、宗一郎は不審げな目を向けた。
「何がおかしいっ」
「ばあちゃんに聞いたんだけど、兄さんが生まれるとき、親父が似たようなことを言ったって」
「親子だ、少しくらい似るのは当たり前だっ!」
 二人が乗っているのは、流麗なボディラインをもつ自作のレーシングカー。めざしているのは、『全日本自動車スピード大会』が開催される多摩川の河畔であった。


2001年1月16日:本田宗一郎物語(第27回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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