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2001年1月5日:本田宗一郎物語(第16回)

  本田宗一郎物語(第16回)

 翌日は快晴であった。
 消防署に案内された宗一郎は、使い慣れた道具を取り出して手早く並べ、消防自動車の大きなボディをひとわたり点検した。駆動系や足まわりに問題はない。ボンネットを開き、エンジンを調べた。こちらも見た目に異常はない。エンジンをかけてみる。東京を出る前に、どういう状況か可能な限り詳しく聞いてはいたが、宗一郎は、全て自分の手順で確かめたかった。
「署長、大丈夫だべか……?」
「心配だども任せるしかなかんべ。はるばる東京さから来てもらっただし」
 ぼそぼそと交わされる会話も耳に入らない。ここが馴染みのない土地であることも、前夜にあれほど感じた不安も、宗一郎の頭からはきれいに消えていた。修理すべき自動車がおれの目の前にある。ただそれだけだった。
 案の定、車の状態は最悪だった。故障の原因がエンジンの内部にあることは間違いない。ばらすしか手はないな……。宗一郎は覚悟を決めた。
「すみません、エンジンを取り外しますから、ちょっと手伝ってください」
 そこにいた面々のなかでは、おそらく最年少であっただろう宗一郎の声が、威厳と圧力を含んで響いた。その声に威圧され一瞬ひるんだものの、ひとつ咳払いをした署長がおずおずと宗一郎に訊ねる。
「き、きみ。疑うわけでねえが、エンジンをバラバラにして、あとで元に戻るべか? 国からお預かりしているこの大切な、つまり高価な……」
「まかせておいてください」
 宗一郎は語気を強めて答えた。
 すでに宗一郎のペースであった。場の空気に飲まれたように消防自動車に近づく数人の手を借りて、宗一郎はいったん外して持ち上げたエンジンをゆっくり、ゆっくりと、地面に広げた作業用の布の上に降ろした。
「さあてと」
 宗一郎は時を置かず、エンジンの分解に取りかかった。

 それからの三日間というもの、ほとんど飲まず食わず、そして眠らずに、宗一郎は作業を続けた。周りで心配する声も、結果を案じる気配も、すでに無関係である。宗一郎の、宗一郎だけによる、いつもの世界であった。

 エンジンを回す時がきた。
 宗一郎の腕前を信じてはいるものの、やはり不安を隠し切れない一同を前に、宗一郎は自信を持ってエンジンをかけた。
 沈黙を続けていたエンジンは一発で目を覚まし、快適な音楽を響かせた。
「おおッ! かかったかかった」
「すげえだあッ!」
 達成感にひたっている宗一郎に、消防署長が駆け寄って声をかける。
「いやいやいやあー、ご苦労さんなこって。さすが東京の修理工さんだすなあ。大したもんだわ、いやあ、すげえべや」
「ま、ざっとこんなもんです」
 すでに道具を片づけた宗一郎は、作業服の上から上着だけはおり、帽子まで手にしている。鞄を持ち上げ、では、と辞去しようとする宗一郎をあわてて止め、署長は叫ぶように言った。
「本田先生ッ。自動車で送らせますで!」
「せ、せんせい……?」
 宗一郎はぽかんと口をあけた。署長に何か耳打ちされ、署員の一人が弾かれたように立ち上がる。宗一郎を自動車まで導き、ドアまで開いてくれたのは、駅で出迎え、旅館に案内してくれた男であった。
「いやあ、何だか申し訳ないですねえ」
「と、とんでもねえっす」
 男は、こわいほど真剣な顔で運転している。気圧されて、宗一郎も口をつぐんだ。
「……あれ?」
 宗一郎を乗せた自動車が向かったのは、駅ではなく投宿先の旅館である。玄関先にずらりと並んだ女将や番頭、女中たちが、
「お帰りなさいましィ」
 深々と頭を下げて宗一郎を迎えた。その急変ぶりにただ戸惑っていると、
「お疲れさまでした」
「お荷物をお持ちしますだ」
「あ、お靴はそのままで」
 一同は何くれとなく宗一郎の世話を焼こうとする。さらに、
「ささ、どうぞこちらへ」
 華やかに化粧をした女将自らの案内で、前夜までは近づいたこともない明るい廊下と渡殿を宗一郎は歩いた。どうも様子がおかしい。だが、面食らうのはまだ早かった。


2001年1月6日:本田宗一郎物語(第17回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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