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2001年1月6日:本田宗一郎物語(第17回)

  本田宗一郎物語(第17回)

「お気に召しますかどうか、おほほほ。当旅館で最上級の部屋でございます」
 通された部屋に足を踏み入れるなり、宗一郎は絶句した。いったい何畳あるのか、青々とした畳の数が途中でわからなくなるほど広い室内である。贅を凝らした調度の主室も次の間も天井は高く、ぐるりと回された欄間には見事な透かし彫りが施されている。床の間には武者の鎧兜まで置かれ、広い縁側からは静かな中庭が見渡せた。
「ごゆっくりどうぞ。おほほほ。まずはお風呂へ。ささ、さあ本田先生」
 総桧づくりの湯殿には、すがすがしい木の香りが満ちていた。どこからも覗かれない造りになっているのか、ここにも中庭に向かって広い窓が設けられている。しかし宗一郎は落ち着かなかった。何となく洋服を脱いではみたものの、裸になってしまうと心細さがつのるばかりである。大きなくしゃみが続けて出た。宗一郎はあわてて湯を浴びた。
「どうなってんだよ、これは……」
 湯舟に肩までつかって、宗一郎は長々と嘆息した。と、脱衣所から女中の声がした。
「先生、本田先生ッ」
「はは、はいっ」
 必要もないのに立ち上がり、宗一郎は直立不動の姿勢になる。
「お背中流すましょうか?」
「い、いや、そんな。結構ですっ」
「んだば、風呂ば上がったら、広間さ来てござっしゃい」
 ひろま? また盛大なくしゃみが出た。ざぶんと湯につかり、すぐに飛び出すと、宗一郎はそそくさと体を洗った。おかしいぞ。おれをだましても、いいことは何もないのに。いいかげんに体を拭き、背広を着込むと、宗一郎は部屋から出た。宿の浴衣を着て、くつろぐ気にはとてもなれなかった。

 女中に案内され、広間をおそるおそる覗いて、宗一郎は肝をつぶした。宏壮な日本間には大宴会の支度が整い、髪を結い上げた芸者衆までずらりと並んでいる。席には、署長をはじめ消防署員が全員顔をそろえていた。
「あ、先生だッ」
 おそるおそる入って行くと、割れんばかりの拍手が宗一郎をつつんだ。どの署員の顔にも、宗一郎に対する敬意がにじんでいる。おれの仕事をねぎらってくれているんだ。ようやく腑に落ちた宗一郎の全身から力がぬけた。ひとつだけ空いているのは、署長の隣の主賓席である。大きな屏風の前のその席に、宗一郎は照れくささをこらえて座った。
「んだば、まずは本田先生、ご苦労さまですたッ」
 署長の音頭で、全員が盃を上げる。生まれて初めて口にする日本酒が、疲れと緊張を溶かして流すような甘さで、宗一郎の全身に広がった。つきっきりで世話をしてくれる芸者からもいい匂いがする。宗一郎は夢のなかにいるようにふわふわと酔った。
「おら、初めて先生さ見たときからピンと来たって。わけえ人だが、こんりゃァただ者でねえべと」
 今では宗一郎の送迎係のような役回りになった男が、しきりに酒をすすめる。と、消防署長が唾を飛ばして反論した。
「あーに言うだかッ。あわてて署に飛び込んで来たのはどこのだれだべ。署長ーッ、東京のアート商会さ、子供ば送ってよこしたべぇってのォ」
 自分の言葉にぎくりとした署長は、肩をすくめて宗一郎に向き直る。
「こ、これは失礼をば……だども本田先生、まことに申し訳ないこって」
「いや署長、先生に謝るのはおらの方っす」
 聞けば、宗一郎を見た瞬間、迎えの男は、アート商会は見習いの若い衆を送り込んできたとすっかり誤解したのだという。そのお返しとばかりに、わざわざ旅館に頼んで、最下等の部屋を宗一郎にあてがっていたのだ。
「いえ、なかなかいい部屋れひたよ」
 ノミがいてくれて寂しくなかったし。そう言おうとした宗一郎だが、ほっと気がゆるんだところに急激に流し込んだ酒で、すでに呂律があやしくなっていた。ふう、と息を吐き出すと、宗一郎は芸者の膝の上に横ざまに倒れ込んだ。天井がぐるぐると回り、先生! 本田せんせいッ、という声また声が遠のいてゆく。いつ、誰が部屋まで運んでくれたのかも憶えていなかった。宗一郎はそのまま、夢も見ずに熟睡した。

 翌朝、軽い二日酔いに、宗一郎の頭は少しばかり痛んだ。しかしその痛みも、迎えの男が現れた瞬間にすっかり消え去った。男は、宗一郎が修理をした消防自動車を運転してきてくれたのである。
「本田先生、ばんざーい」
「アート商会、ばんざーい」
 宗一郎は、駅に集合した消防署員たちの声に送られて盛岡をあとにした。宗一郎の非凡さを改めて世に示し、宗一郎自身も大きな収穫を得た初出張であった。


2001年1月7日:本田宗一郎物語(第18回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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