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2000年12月30日:本田宗一郎物語(第10回)

  本田宗一郎物語(第10回)

 初めて接する東京は、騒音と塵埃にあふれかえっていた。しかし宗一郎にとって、その光景は天国であった。喧噪の原因は、道路にひしめきあう自動車また自動車だったからである。
「うわあーっ、すげえなあ、どっちを向いても車だらけだ」
 目をきらきらと輝かせ、歓声をあげる宗一郎を苦笑混じりに見て、
「お前もこれでわざわざ自動車を見に行くこともないな」
 父の儀平はそうからかった。東京駅の正面である。このころ自動車が急増した東京では道路事情がまったく追いつかない状況が続いていたが、なかでも丸の内周辺は混沌たる光景を呈していた。
「そう遠くはなさそうだ。道をおぼえるのにちょうどいい、歩くか」
 儀平に誘われ、宗一郎は軽い気持ちでうなずいた。
 宗一郎の奉公先であるアート商会は、現在のJRお茶の水駅の北西に位置していた。歩くには少々骨の折れる距離である。旧い建物と新興のビルディングが混在する見なれぬ風景のなかを進んでゆくうち、宗一郎はこれまでに感じたことのない疲労を覚えた。
「ふぅ……東京って、でかいんだなあ。どこまで行っても街つづきだ」
「疲れたか。がんばれ、もう少しだ」
 地図を片手にした儀平が笑って応える。その儀平の足もさすがに重くなった頃、『アート商會』の看板を掲げた木造の工場が目に入った。社名の下には、エンヂン再生・車体塗装の文字も見える。それを目にしただけで宗一郎の血は騒いだ。
「ほう、なかなか立派な工場じゃないか」
 うん、と応じたが、宗一郎は上の空である。その目は、作業服を身に着け、機械油にまみれて働く先輩たちに釘付けになっていた。

 アート商会の経営者は、榊原郁三という温厚な男性であった。宗一郎を一人前の修理工に育て上げ、のちに恩人として語られる人物である。そんな未来が訪れようとは露ほども知らず、榊原は眼鏡の奥の優しげな目を、狭い応接室の椅子にかちかちになって座る宗一郎に向けた。
「本田君、今日はいいから、お父さんを送りがてら東京見物でもしてきなさい」
「あ。は、はあ、でも……」
 一刻も早く自動車にさわりたい宗一郎は気もそぞろである。それを遠慮と解釈した榊原は、笑みをさらに広げて、宗一郎と儀平をかわるがわる見て言った。
「いいんだ。そのかわり、明日からはみっちり働いてもらうよ」
「はいっ、一生懸命がんばりますっ」
 その日は結局、榊原の言葉に甘える形で、儀平と宗一郎は上野や皇居を見物して回り、短いながら親子水入らずのひとときを楽しんだ。旅館に泊まる余裕はなく、夜行で帰る儀平を東京駅に見送ると、宗一郎はこの日二度目となる湯島までの道を一人で歩いた。父と離れた淋しさを圧して、明日から始まる日々への希望が、胸がはじけるほどふくらんでいた。
 榊原が口にした、みっちり働くということばの意味を宗一郎が正確に理解するのは、それからわずか数時間後のことであった。

 アート商会は榊原の住居も兼ねており、工員たちはほぼ全員が泊まり込みで働いていた。宗一郎ら若い面々は、二階の狭い和室で雑魚寝に近い状態である。なかでも最年少の宗一郎は一番奥に追いやられ、自由に寝返りを打つこともかなわなかった。
 深夜、その狭苦しい空間で、宗一郎ははっと目を覚ました。いびきや歯ぎしりの音がうるさく、部屋にはかすかにオイルの匂いが漂っている。
 そうか。宗一郎は違和感や抵抗を覚えるより先に、うれしくてたまらなくなった。ここは東京なんだ。おれは今日から、アート商会で自動車屋の修行をするんだ。居ても立ってもいられなくなった宗一郎の頭からは、昼間の疲れも眠気もきれいに吹き飛んでいた。暗闇のなかで着替え、先輩たちの脚をそっとまたぎ越して部屋から出ると、宗一郎は一階にある工場めざして、幅の狭い木製の階段を音を立てないように一歩一歩下りていった。
 手探りで裸電球のスイッチを入れ、まぶしさに思わず目を閉じる。おそるおそる瞼を開くと、そこには宗一郎の夢をぎゅっと凝縮したような光景が広がっていた。何台もの自動車が、じっと修理や塗装を待っている。ひっそりと身を寄せあう自動車の群れが、宗一郎の目には静かに眠っているように映った。
「待ってろよ。おれがこの手でぴかぴかにしてやるからな」
 今日からは、だれにも遠慮せずに、好きなだけ自動車にさわれるんだ。そう思うと、とろけるような幸福感が宗一郎の身をつつんだ。工場の真ん中に立ってぐるりと見回し、最初に目についた一台に近づいてゆく。ボンネットにふれ、ひやりとした感触に声をあげかけた宗一郎に、階段の上から鋭い声が飛んだ。
「こらあッ、新入り! 勝手に自動車にさわるな! まだ十年早いぞッ」
 宗一郎は、ボンネットに置いた手をびくりと引いた。長い別れの始まりであった。それからの数か月間を、宗一郎は自動車に指一本ふれることなく過ごすのである。


2000年12月31日:本田宗一郎物語(第11回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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