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2000年12月31日:本田宗一郎物語(第11回)

  本田宗一郎物語(第11回)

 主任格の先輩に叱責されてしおしおと部屋に戻り、まんじりともしないうちに朝が来た。
 顔を洗って朝食をすませ、いざ工場へといきり立つ宗一郎は、食後の片づけを命じられた。それが終わると、部屋掃除。さらに先輩たちの洗濯物を洗い場に運び、息つく間もなく、おかみさんと呼ばれる榊原の妻に頼まれた買い物に走る。さっぱり様子のわからぬ町で、宗一郎は豆腐ひとつ買うにも、大変な手間と労力を消費した。急いで戻れば、今度は昼食の時間である。食器をまとめて運び終えた宗一郎は、折良く通りかかった榊原に、朝から気になっていたことをおずおずと切り出した。
「あの、だんなさん、おれ、いや、ぼくの作業服は……?」
「作業服? 当分そんなものはいらないよ」
「えっ? でも、あの、工場では……」
「ほら、洗い物は早くすませないと困るぞ。カミさんひとりじゃ手が回らないからな。ガキのお守りもな」
 それ以上問う間を宗一郎に与えず、榊原はさっさと工場に姿を消した。掃除と片づけ、洗濯の手伝い、使い走りに洗い物、そして子守り。そうした雑用一切が、新入りの自分の仕事のすべてであることを、このとき宗一郎は遅ればせながら理解した。
 毎日、自動車に囲まれて暮らせる。すぐに修理を教えてもらえる。宗一郎の抱いていた期待、ふくらむだけふくらんだ夢は、初日にして早くも打ち砕かれたのである。自動車修理見習いとは名ばかりの、体のいい丁稚奉公であった。だが、厳しい徒弟制度の敷かれた世界では当然のことである。それさえ認識していなかった自分の甘さを、宗一郎はいきなり眼前に突きつけられることになったのである。

 春が過ぎ、夏が来た。宗一郎の毎日は、来る日も来る日も、掃除にお使い、洗い物、そして厄介な赤ん坊の子守りに明け暮れた。背中でむずかる赤ん坊の体重が増えるのと歩を同じくして、宗一郎の絶望も重く背にのしかかってきた。自動車を愛することにかけては人後に落ちない自信があり、知識と手先の器用さにはなまじプライドがあるため、焦りと空しさは人に倍する速度で募り、成長し、心にべったりと広がってゆく。最初は少しも気にならなかった先輩たちのいびきや歯ぎしりが、この世で最も嫌らしい雑音として宗一郎の神経をざらざらと刺激した。宗一郎は耳をふさいで眠るようになった。夏が終わる頃には、宗一郎は心身ともに疲れ果て、いくら自分を鼓舞しても、虚無感ばかりがうつろな胸でからからと音をたてるだけだった。
 希望だけを抱いて上京してから、六か月の夜。 宗一郎は紐でくくった行李を二階の窓からぶら下げて地面に下ろし、慎重に電柱をつたって、自分自身もあとを追った。行李を背中にくくりつけ、表の通りに回ると、おずおずとオート商会の看板を見上げる。わずか半年前には大いなる憧れととともに見つめた看板から、いま宗一郎は逃げ出そうとしていた。 背中を向け、暗い夜道をとぼとぼと歩き出す。逃げ込む先は、郷里の光明村しかなかった。ふっと空を見上げると、夏の終わりの空いちめんに広がってまたたく星々に、父の面影が重なった。宗一郎は足をとめた。別れ際に儀平が残したことばを、宗一郎は初めて思い出していた。
「宗一郎。これはお前の選んだ道だ。どんなにつらいことがあっても辛抱しろ」
 この日が来ることを父は予見していたのか。それとも儀平自身が、みずからの苦しい修業時代を思い出して語っていたのだろうか。父はこうも言った。
「いいか、逃げて帰って来ても家の敷居はまたがせんぞ」
 早く一人になって工場に戻りたい、自分のことばかり考え、おれは気もそぞろに聞いていた。そして、胸を張って応えたはずだ。
「わかってる。一人前になるまでは絶対に頑張るよッ」
 わが子をひとり東京に残してゆく父が、どんな思いと痛みをかかえていたのか、まだ十代半ばの宗一郎には想像のしようもなかった。それでも、自己本位を振りかざし、逆境に陥るやたちまち尻尾を巻いて父や母のもとに逃避しようとする自分の弱さ、身勝手さだけは、手でふれて確かめるようにはっきりとわかった。
 星空の下で何十分立ちつくしていたか、宗一郎はくるりときびすを返すと、来た道を戻り始めた。
「わかったよ、父ちゃん、母ちゃん……もう少しがんばってみるよ」
 決意はしたものの、足取りは重い。両足をひきずるようにして歩き、アート商会の建物に戻った宗一郎は、そこで新たな困難に直面した。しがみついて滑り降りるのは容易だった電柱が、つるつると手がかりのない障壁として目の前にそびえ立っていたのだ。逃れ出てきた二階の窓が、はるか遠くに小さく見えた。行李を背中に結び直し、電柱によじ上ろうとした宗一郎は、暗がりから不意に聞こえた声に思わず身を縮めた。
「そんな所から入らんでも、裏が開いてるよ」
 はっと見ると、宗一郎より数年も先輩にあたる北沢が、街灯の下にのそりと姿を現した。朴訥な人柄で、皆から彦さん、と呼ばれる北沢は寝間着姿である。
「柳行李かついで夜の散歩たァしゃれてるな」
ことばにつまる宗一郎に、北沢は表情に笑みを含ませ、ぼそりと言った。
「よく帰ってきたな、本田」
「あの、彦さん、おれ……」
「わかってるよ。オレも逃げ出したクチだ」
「え……?」
 近くの公園のベンチに宗一郎を座らせ、北沢は自分の身の上を訥々と語った。
「呉服屋を逃げ出したのは十年前かな……三年間、雑用ばかりで嫌になってな。もともと好きで入ったんじゃないから後悔はしてねえが、でも自動車屋はオレの好きな仕事だ。不器用だからいまだにドジってばかりだが、ここから逃げ出すわけにゃいかねえやな」
 自らの境遇に事寄せて、新入りの自分を励まそうとしてくれている北沢の気持ちが、宗一郎のささくれ立った心にしみ通っていった。
「ま、辛抱すりゃいいってもんでもねえんだろうが、自分のやりたいことをやり遂げずに逃げ出すってのも情けねえ話だからな。……さてと、みんなが起き出さねえうちに帰るか」
 大きく伸びをする北沢の背中に向かって、彦さん、ありがとう、と宗一郎はつぶやいた。雑用ばかりの毎日に対する宗一郎の姿勢と目つきが一変したのは、その翌日からのことである。


2001年1月1日:本田宗一郎物語(第12回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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