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2000年12月29日:本田宗一郎物語(第9回)

  本田宗一郎物語(第9回)

 アート商会からの返事を心待ちにする毎日が始まった。誰よりも先に見たい、いや、まずおれ一人が見ないといけないんだ。学校が終わると、宗一郎は飛ぶように帰路を急ぎ、家からは少し離れた場所で、郵便配達の自転車が通りかかるのをひたすら待った。
「おや、今日もお出迎えかい。いつもわるいねえ」
「いいから早く調べてよ」
 どれどれ、と配達夫が鞄を探る。宗一郎宛の手紙はない。それが儀式のように日々繰り返された。思えば、何かをじっと待つというのは、どんなことにも自分から食いついてきた宗一郎が、これまで味わったことのない経験だった。わくわくするような期待感は、猛然たる焦燥へ、そして失望の連続を経るうちに、平べったいあきらめへと変わっていった。やがて待ちくたびれることにも飽き飽きした宗一郎が、
「他の誰かにもう決まっちまったのかなあ……」
 と希望を投げ出しかけたある日、いつものようにキコキコと自転車のチェーンを鳴らして、いつもの道をやってきた郵便配達夫の鞄のなかには、宗一郎の名前が表書きに記された一通の白い封筒が入っていた。
「本田さーん、郵便ですよォ」
 だが、その封筒を真っ先に目にしたのは宗一郎ではなかった。その日に限って学校に残された宗一郎は、大幅に遅れた帰宅時間を気にしながら、帰り道を走りに走った。妙に胸が騒いでいた。でも、まさか今になって、それもこんな日に……。
 いやな予感は、たいてい当たる。家に着いて父の仕事場をちらっと覗き、どことなく落ち着かない空気のなかを自分の部屋まで歩くと、机の上に、本田宗一郎様、きっちりとした字が並んだ封筒が置かれていた。頭にかっと血が上り、頬が熱くなった。
 胸の高鳴りをおさえ、帽子を脱いで机の上に置き、手紙の正面に正座する。ひとつ息をついて封筒を裏返すと、そこには紛れもない『アート商会』の文字があった。
「とうとう来たか……」
 封を切ろうとした瞬間、襖の向こうで、宗一郎、いいかい? と母のみかの声がした。
「あ、ああ、いいよ」
 静かに部屋に入ってくる母の目から、宗一郎は反射的に封筒を隠そうとした。それを見透かしたように、みかは淡々とした口調で言った。
「その手紙のこと、父さんとても気にしてたわ」
 はっとした宗一郎は、読んだの、と思わずとがった声で訊く。
「ううん。……あとでくわしくお父さんに話してあげてね」
 入ってきたときと同じ静けさで、母が部屋から出て行くと、宗一郎は思いきって封を開け、中に入っている一枚きりの便箋を取り出した。
 自分が目にしていることばの意味が一瞬わからず、わかってからは信じられなくなった。
『採用申し上げたし。卒業後ただちに上京されよ』
 喜びが噴き上げるまでには、さらに短い間があった。
「や、や、やや、やった、やったやった、やったあーッ!」
 宗一郎は思いきり歓喜を爆発させた。小躍りし、手足を空中に突き出して暴れても、体は動きを止めようとはしなかった。歯を食いしばり、目を見開いて、宗一郎はさして広くもない部屋中を跳び、駆け回った。

 父の儀平の反応は、思いのほか冷静だった。自動車と聞けば家から飛び出し、後ろから追いかけ回す宗一郎をすぐ近くで見てきた儀平である。卒業後のことを話しはじめた頃から、宗一郎の様子に感じるものがあったにちがいない。そこに今日の手紙である。自分の夢を素直に、けんめいに語り、ごめんね父ちゃん、と小さい声になる宗一郎に、儀平はさっぱりとした調子で応じた。
「あやまることはねえ。どうせ一回きりの人生だ。やりたいと思うことをとことんやってみるのもいいだろうよ」
 父への感謝とすまなさに、宗一郎は何も言えなくなる。そんなわが子を励ますように、儀平は感慨深げに続けた。
「自動車か。おもしろいだろうなあ。オレももう少し若かったらやってみたかったなあ」
 その言葉に力を得て、宗一郎は新たな希望を次々に口にする。
「おれ一生懸命勉強して、何年かしたらきっと帰って来る。そしたら父ちゃん、やろうよ、一緒に、自動車をさ。おれが教えてあげる。そうだ、そうしようよ。いつか、こんなでかい工場を建ててさ」
 儀平は思わず苦笑する。さらに夢中になって話し続ける宗一郎の耳には、小さくぽつんともらした父の言葉は届かなかった。
「そうか、行くのか、東京に……」

 大正11(1922)年、春。まだ寒さの残る浜松駅に、儀平と宗一郎親子の姿があった。
「東京まで、大人一枚、子供一枚」
 切符を買う父のすぐ横に貼りつくように立つ宗一郎の胸を、光明村から遠く遠く離れてしまったような心細さと感傷が締め付けていた。だが、めざす東京はまだはるか先である。
「急げ宗一郎。汽車が入るぞ」
 もうもうたる煙と蒸気を吹き上げ、さまざまな機械音をまき散らしながら、黒光りする巨体を重そうに動かす汽車は、従来であれば宗一郎の好奇心の格好の標的になっていたはずだ。だが今、宗一郎にそんな余裕はなく、父の背を追って、ただ無言で車内に乗り込んだ。ほどなくして、甲高く、泣き叫ぶような汽笛の音が響くと、汽車はごとり、ごとりと動きはじめた。父と子は、なおも無言で、窓外を流れゆく景色に目を放っていた。
 おだやかな地形の山々に、まだ緑の芽吹かぬ田や畑に、さまざまな人の顔が浮かんでは消えてゆく。祖父、祖母、母のみか、弟の弁二郎。幸次、喜代次、卯一。友人たち、村の人々……。それらの顔が少しずつ小さくなる頃、宗一郎の心には、東京に対する満々たる闘志と、そこで待つ新たな生活への身震いするほどのよろこびが満ちてきた。
 本田宗一郎、15才。まさに青雲の志を抱いての上京であった。


2000年12月30日:本田宗一郎物語(第10回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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