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2000年12月28日:本田宗一郎物語(第8回)

  本田宗一郎物語(第8回)

 宗一郎が生まれて初めて目にした自動車は、浜松から来たタクシーであった。光明村の村長の親戚筋にあたる人物が、東京での成功を報告に、はるばる村を訪れていたのである。 そのタクシー自体が、浜松の町を走り始めて一年に届くかというめずらしい存在であり、宗一郎の暮らす村を走ったことは僥倖ともいえる出来事であった。ともあれ、宗一郎は自動車と出会った。それは体内のエンジンに火が入った瞬間でもあった。才気とアイディアに執念というエネルギーを注ぎ込み、爆発的な成功と共感を次々に生み出してゆく。本田宗一郎の生涯は、このときから疾走をはじめたのである。

 どこそこに自動車が来たと聞けば、勉強も家の手伝いも放り出して一目散に駆けつける。メカニズムを知りたい、そんな誘惑に抗えず、エンジンを覗き込もうとしては叱責される。逃げ出しては戻る。また叱られる。それが宗一郎の日常となった。こぼれ落ちているオイルを見つけると、指をひたして光沢に見入り、手でかきまぜては匂いに酔いしれた。
「ああーっ、たまんねえ……」
 揮発性の匂いが胸にふくらむと、現実はたちまち眼前から遠のき、自動車のこと以外は何も考えられなくなる。おれは自動車屋になるんだ。目のくらむような陶酔感のなかで、宗一郎は決意を新たにしてゆくのだった。
 だが。
 大きな関門が、目の前にそびえ立っていた。翌年の春、宗一郎は高等小学校を卒業する。自分の決意をどうやって父の儀平に切り出せばよいのか、宗一郎の悩みは日を追って重く大きくなっていった。
 同級生の卯一は、一緒に中学へ行こうと誘ってくれた。でも、うちはそれほど裕福じゃない。父ちゃんは、おれが商売をつぐことを期待しているだろう。どうすれば、一体どう言えばいいんだ……。
 迷っているうちに年が明けた。卒業の日は近づくばかりだ。意を決した宗一郎は、ある日の夕方、仕事場にいる父をつかまえた。
「父ちゃん、あの、今ちょっといいかい?」
「おう、何だ」
 けんめいに自転車を修理する父の姿を見ると、用意した言葉は何も出て来ず、口調は歯切れ悪くなるばかりだった。それでも宗一郎は、思い切って言ってみた。
「卒業したあとのことなんだけど……」
 儀平は背中を向けたまま、ぶっきらぼうな声で、意外きわまる返事をかえした。
「そのことだけどな、中学に行きたきゃ行っていいぞ。オレの仕事を継ぐことは考えんでもいい」
 宗一郎は絶句した。大喜びするかと思いきや、口をつぐんだ息子を不審に思ったか、儀平はようやく振り向き、宗一郎の顔を見た。
「……どうした? 中学へは行きたくないのか」
「あ、ああ、ううん。……ありがとう、父ちゃん」
 宗一郎は肩を落として自分の部屋に戻った。無骨だが思いやりのこもった父の言葉が、大きな重荷になって宗一郎の身と心にのしかかっていた。自分の思いを、ますます言い出しにくくなっただけだった。
 はちきれるほどの希望があるのに、その上には暗い雲がかかっている。そしてその雲の正体は、父の差し出してくれる優しさなのだ……。自分がどうしようもなくいやな人間に見え、やりきれない思いをかかえて、宗一郎はごろりと横になった。目の前には、何度も飽きずに読んだ自動車の雑誌がある。今はそこに逃げ込むようなつもりで、宗一郎はぱらぱらとページをめくった。と、その手が止まった。
 「これだ……」
 がばと起き直った宗一郎は、思わず正座していた。手のなかの雑誌には小さい広告が掲載されている。宗一郎の目は、そこに記された文面に吸い寄せられていた。
『自動車修理見習い募集 東京都本郷区湯島五丁目 アート商会』
 「ここだ、ここに行けばいいんだ……!」
 この広告に、どうして今まで気づかずにいたのかわからなかった。しかしもはや、そんなことさえどうでもよかった。宗一郎の想像はあっという間に羽ばたき、一人前の修理工になって自動車に自由にふれている自分の姿が痛いほど鮮明に浮かんだ。べっへへへへへ……久しぶりに湧き起こった笑いが消えないうちに急いで志望の手紙をしたため、ためらいが生じぬうちにと宗一郎は町角のポストへ走った。アート商会の名が、この世で最も美しい響きになって、頭のなかで高らかに鳴りつづけていた。
 だが、足をとめ、ポストに手紙を入れる段になって、自分がとんでもないことをやっているような不安とおののきに、宗一郎の身がすくんだ。投函しかけてはやめ、家に帰りかけてはポストに近づく。どうした、自動車屋になるんじゃないのか? 初めて見た自動車の姿が、ガソリンの匂いがありありとよみがえった。思い出すたびに胸がうずく記憶だ。それに力を得た宗一郎は、ポストの差し入れ口深く手紙を入れ、えいっ、と声を出して手を離した。
 ぱさり。
 手紙がポストの底に落ちる乾いた音が驚くほど大きく響き、宗一郎は飛び上がった。やった、これでいいんだ。いや、お前はまちがっているんだぞ。カッと熱く、どきどきと高まる胸のなかで、ふたつの正反対の感情がもつれ、戦っていた。だが、ひとつだけはっきりしたことがあった。手紙を取り戻すことは、もうできない。
 宗一郎は大きく息を吸うと柏手を打ち、ポストに向かって深々と頭を下げた。


2000年12月29日:本田宗一郎物語(第9回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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