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2001年4月22日:本田宗一郎物語(第122回)

 1973年に本田技研工業の社長を退任した宗一郎であったが、ホンダに対して影響力が無かったわけではない。

 1976年に発売され大ヒットとなったホンダ・アコードには、このクラス初のパワステ(車速感応型)が装備されている。それは、和光研究所にあった試作段階のアコードに乗った宗一郎の一言、
 「なんで、この車のハンドルはこんなに重いんだ!」
から始まったのである。
 それまでパワステ装備は検討すらなされていなかったのである。1600ccクラスの車で油圧を制御するシステムは当時の日本にはなく、社内にも反対の声が多かった。開発は困難を極めたという。
 運輸省の型式認定の際にも、クレームがついた。
 「小型車にパワステをつけると、ハンドルが軽くなりすぎて危険ではないか」
 担当者は、運輸省に出向き説明を行い、最後には、茨城県谷田部にある日本自動車研究所で、運輸省の審査部長に試乗をしてもらうことまでして、認定にこぎつけた。
 パワステの開発成功の裏には、自分達が追い出してしまったおやじさん、今までそばで、ああしろ、こおしろと煩かったおやじさんではあったが、今はいないそのおやじさんに、せめて喜んでもらいたい、という意識が開発者の胸のうちにあったのかもしれない。
 今では、軽自動車にもパワステが装備されている。そのきっかけは宗一郎の一言だったのである。

 また、圧倒的にホンダ・パワーの強さを見せつけた第2期F1参戦(1983年〜1992年)の初期のことである。
 当時F1チームの総監督であった桜井淑敏が、パワーが計算値を下回っていることに悩んでいた。そこに宗一郎が来た。桜井は、
「まずいところに、おやじさんが来たな」
と思った。説明を求める宗一郎に対して桜井が説明をすると、
「回してみろ」
と言った。
その後で、宗一郎は、4本のボルトで固定されている部分を指して、
「ここは6本でとめなきゃだめだ」
と言った。桜井が、
「コンピュータの設計では、4本で十分……」
「いいから、6本にしろ!」
 桜井が6本に設計し直して回したところ、パワーは計算値に達した。F1の快進撃がそれから始まるのである。
 ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アラン・プロスト、アイルトン・セナなどのチャンピオンを生み、1988年には、16戦中15勝という圧倒的な強さを誇るエンジンが誕生したのだった。ただ一つ落とした1戦は、他の車との接触事故によるものであった。接触相手の車をドライブしていたのは、ジャン・シュレッサーであった。ジャンは、第1期F1参戦時に空冷F1:RA302で焼死してしまったジョー・シュレッサーの息子である。
 この年、ホンダ・エンジンを搭載しない限り優勝はありえない、という状況ではF1が面白くないということで、翌年(1989年)から、ターボ・エンジン禁止の決定が下された。
 その決定を聞いて、かつてはF1のエンジンを開発し、その時点でF1の最高責任者であった川本(1990年に3代目社長に就任)は、F1撤退を決めた。最先端技術の導入を認めないF1に参戦しても得るものがない、と思ったからである。
 川本はそのことを宗一郎に報告に行った。
 「来年から、ターボ・エンジンが使えなくなりました」
 「あ、そう。で、ターボ・エンジンが使えないのは、ウチのチームだけかね」
 「はあ?」
 「よそのチームは、ターボが使えて、ウチだけが使えなくなったのか?」
 「いえ、どのチームも使えません」
 「なんだ、そうか。ウチのチームだけ使えないようなルールを作ったのかと思って、感心していたのだが、そうじゃないのか」
 「は、はい」
 「しかし、連中はバカだな」
 「と、いいますと?」
 「だって、どのチームも新しいエンジンを作らなきゃならんのだろ?」
 「そうです」
 「だったら、ウチが一番早くいいエンジンを作れるっていうことを連中は知らんわけだ」
これを聞いた川本は、つい、
 「そうですね」
と答えてしまったのである。
 そして宗一郎は川本に尋ねた。
 「何か相談があったから、俺のところに来たんだろ? で、何だ」
 「いえ、たいしたことではありません」
そう言って、川本は引き上げてきた。

 その後設計されたものが自然吸気式V型10気筒エンジンである。それは、アラン・プロストとアイルトン・セナを再びチャンピオンにし、その後のF1界に10気筒時代をもたらしたエンジンでもある。もちろん宗一郎の言った通り、新しい規格の最初のチャンピオン:アラン・プロスト、第2位:アイルトン・セナにその栄光をもたらしたのはそのホンダ・エンジンであった。この年は、前年には劣るものの、16戦中11勝をマークしたのである。

 川本は後に言っている。
 「俺は、自分のためにF1をやってきたつもりでいたが、もしかしたら、おやじさんの喜ぶ顔がみたくてやっていたのかもしれない」
 第2期F1参戦は、宗一郎が亡くなった(1991年8月)後、終了となる。

 現在ホンダは第3期(2000年〜)のF1参戦中である。しかし、1年と3レース計20レース、1度の表彰台すらない。
 喜んでもらえる人がいない、
 怒鳴ってくれる人がいない、
ということは、そういうことなのかもしれない。


2001年4月23日:本田宗一郎物語(第123回) につづく


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