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2001年4月13日:本田宗一郎物語(第114回)

「なんだ、この数字は。一体どういうことだ……?」
 営業部から届いた報告書を目にして、藤沢は我知らずつぶやいていた。記されていたのは、ホンダ1300の売り上げ台数である。発売から一か月、数字はまったく伸びていなかった。どころか、すでに頭打ちにさえ思える惨状であった。
 なぜだ……。
 藤沢は頭を抱えた。ホンダ初の小型乗用車を得て、勢いづいた全国の販売店は積極的な販促活動に打って出ていた。軽自動車からの乗り換えや新規ユーザーの開拓をめざし、大量のダイレクトメールを発送した。鈴鹿サーキットを借りきって、大々的な発表会も催した。何より、2000ccクラスに比肩する性能が、高く評価されてもいた。それがこの惨憺たる結果である。
 販売戦略の失敗だろうか……。

 結局は宗一郎の誤算だった。
 宗一郎は理念の人だったが、その理念を評価してものを買ってくれるような社会ではなかった。例えば、宗一郎が、物真似でない技術をアピールしても、車の中に使われている技術が物真似であろうがなかろうが、買う側にとっては無意味であった。自動車評論家も同じだった。日本独自の技術を育てていこうといった風潮はなかった(今でもないが)。
 あるいは、1300ccでありながら、2000cc並みの動力性能を持っていると宗一郎がアピールしても、2000ccの車の方が見栄えがいいから、わざわざ1300ccの車を買う必要はない、と言われた。
 水冷より静かな空冷エンジンと宗一郎がうたえば、水冷は最初から静かだから、静かな空冷といったうたい文句はナンセンスだと反論された。
 宗一郎の誤算は、車を求める人たちの意識に対する誤算だったのである。車を求める人たちは、宗一郎が考えていた以上に保守的だった。オートバイを求める人たちよりずっと保守的で、現実的だった。彼らは夢を求めているように見えて、実は、現実的は「実」を求めていた。
 それは今でも同じである。普通の人が夢にかけるお金は、数十万円どまりだ。どんなにすばらしいスポーツカーも、決してベストセラーにはならないし、低公害・超高燃費と高らかに理念を掲げても決して売れたりはしない。車とは、特別な人のためにあるのではなく、大衆のためにあるのである。天才宗一郎にわからなかった車の現実的側面であった。

 1969年は、"欠陥車"が社会的な問題となった年でもあった。
 欠陥車。四輪の技術者と販売者にとって、耐え難い響きを持つこのことばが世間を席巻しはじめたのは、ホンダ1300のデビューと、まさに時を同じくしていた。
 震源地は、排気ガス規制と同じくアメリカであった。ラルフ・ネーダーという弁護士が、自著のなかでゼネラル・モータース製の車の安全性を鋭く批判したことを引き金に、アメリカの新聞紙上で大規模なキャンペーンが展開されたのである。
 その結果、自動車安全法という新たな法律が定められ、メーカー各社は欠陥車の回収を余儀なくされることになった。その波は、日本からの輸出車も楽々と飲み込んだ。1969年5月12日付けのニューヨーク・タイムズ紙は、以下のように報じている。
「リコールについては、これを公表することが回収率にダイレクトに反映する。しかるに、日本を含めた国外メーカーの半数は公表に応じていない」
 日本のメーカーとして挙げられていたのは、二大メーカーのトヨタと日産であった。この記事をきっかけに、日本のマスコミでも本格的な欠陥車キャンペーンが始まったのである。両社に続き、ホンダやスバル、東洋工業といったメーカーも批判を浴び、新聞に欠陥車関連のニュースが載らない日はないという騒ぎとなった。
 政府も、めずらしく敏感に反応した。6月、自動車業界に対して欠陥車問題への対応を指示するとともに、リコールの届け出強化を中心とする欠陥車総合対策を発表。だが、それに背を向けるかのように、同じ6月10日の新聞社会面には「日本の自動車メーカーがアメリカで隠密回収」と銘打った記事が掲載された。ぴりぴりと神経を尖らせたのは、顧客に迷惑をかけることを何よりも嫌った、本田宗一郎その人であった。
「おい。うちにそんな問題はなかろうが、念にも念を入れろ。これまでの修理記録を総ざらいして、設計、製造の問題点を徹底的に洗い出せ。もし複数の修理記録に共通項があるなら、それはお客さまにとっては欠陥だ。潔くお詫びするしかない」
さらにこうも言った。
「これだけたくさん作って買っていただいたんだ。最初は気付かなかったかもしれないが、お前らにも気になっている個所があるだろう。万が一にもトラブルの元になるような部品や機構があるのなら、一切手を抜かず目を瞑らず、すべてリコール対象としろ。それがメーカーの責任だ。いいな」
 ホンダの動きはどこよりも早かった。主要メーカーから成る自動車工業会が、リコール対策のため、自動車安全対策協議会を結成したのは6月27日。それに先んじる13日、ホンダは運輸省に対してNシリーズ3機種9項目に及ぶリコールを届け出ていたのである。日本で最初のリコール届けであった。
 対象となったNシリーズは、すでに三十万台近くが全国を走っている。
 修理の概算費用は一台につき約一万五千円。総計で四十五億円と見積もられた。その期の決算が赤字に転落することは明らかであった。


2001年4月14日:本田宗一郎物語(第115回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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