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2001年4月9日:本田宗一郎物語(第110回)

 その後も中村はRA302は欠陥だと主張し続けた。
 空冷エンジンはもとより、ガソリン・タンクの位置、とりわけドライバーのシートが前方にあることは重大な設計ミスだと言った。
 「RA302は、ちょっとでも速く走ろうとすると、ドリフトのコントロールが不可能なくらいに難しくなってしまう。したがって、それを避けるために、アクセルを手前で放してしまうので、速く走らせることができない。それは、RA302のシートが後輪から離れているために、後輪の『スベリの情報』をキャッチするのが遅れてしまうからだ。それが、我々の一致した意見だ。我々とは、テストドライバー、デビット・ホップス、ジョン・サーティーズ、シャーシ設計者の佐野君のことだ」
と、中村はコメントした。
 それに対して、サーティーズは、自分は同意した覚えはない、と次のようにコメントした。
「レーシング・ドライバーたるものドリフトを起こしてからコントロールするのでは手遅れなので、ドリフト発生前にそれを予知してコントロールすべきなのだ」
 つまり、ドリフトしてからのコントロールがしにくいから速く走れないなどと言ってはいないし、ホップスがそう言ったのであれば間違いだ、とサーティーズは異見を申し立てたのだ。
 これに対して、中村は、
「設計段階でドライバー位置をサーティーズも含めて検討した時、彼自身もそれで問題ないだろう、と言った手前の発言だろう」
と注釈を入れた。

 自らチーフデザイナーと名乗った宗一郎の作品、佐野の野心的な作品であるRA302は、批判の的であった。しかし、読者の方はご存知だと思う。現在のF1のレイアウト、つまりシートの位置、ガソリン・タンクの位置は、佐野が設計したものに近いのである。

 久米は日本に帰った。
 久米は、宗一郎がもうRA302を諦めることを期待していた。
 しかしそれは、失敗が大きければ大きいほど意欲を燃やす宗一郎を理解していなかった久米が甘かったのである。
 久米は、それでも何度となく
「空冷はいくらやっても駄目です。もうやめましょう」
と、宗一郎に言った。研究所全体の雰囲気もRA302を続けたがっていなかった。皆、
「おやじさんムキになっている」
と思っていた。

「おやじさん、遠心分離器で、オイルと空気を分離するのは難しいんです」
「やり方が悪いんだろう」
「エンジンが過熱し過ぎて、オイルが蒸気になってしまうんです。蒸気になってしまったオイルと空気を分離することはできないんです」
「……」
「だから、空冷では駄目なんです」
「遠心分離器で蒸気になったオイルと空気が分離できないことと空冷が駄目だということとは違うだろう」
「クランク・ケースの中に空気を送って冷やせ、遠心分離器を付ける、そういったのはおやじさんじゃないですか」
「お前が、最初から空冷は駄目だといって何のアイディアも出してこないから、たとえばこういうのはどうか、と言ったまでだろう。最終的にはお前の判断で採用したんじゃないか。言われたからやりました。言われた通りしたら駄目でした、で技術者が務まるか」
「言われた通りにしないとおやじさんは機嫌が悪いじゃないですか」
「俺の機嫌をとる為にそうしてきたというわけか」
「そうですよ、俺ばかりじゃありません。研究所の誰でもがそうですよ。知らないのはおやじさんだけですよ」
「人のことを言うのはやめろ」
「いいえ、いいます。みんなおやじさんのご機嫌をとるために四苦八苦しているのです」
「じゃあ、おれの機嫌とるために、お前、ホンダを辞めたらとうだ」
「……」
「おれの機嫌をとるために何でもやってきた、というんなら、辞めてみろ。すきなレースにはうウツツを抜かし、いやなことから逃げて、挙句のはてに、俺の機嫌をとるためにしてきただと」
「わかりました、辞めればおやじさんの機嫌がよくなるなら、辞めますよ」

こうして久米は、研究所を出て行った。
 怒った宗一郎は、川本を呼びつけ、
「久米は辞めた。だから、これからは、お前が空冷の責任者だ」
と言った。

 しかし、川本も空冷は駄目だと思っていた。宗一郎以外で、空冷を本気に考えるものはもう研究所にはいなかったのである。

 宗一郎にとって、空冷エンジンがその後の自動車エンジンの主流になるかどうかが問題ではなかった。困難な課題に対して、奇抜なアイディアを出し、努力と実験を通して、その課題を克服していく過程の中から何かが生まれてくる、という考え方。
 また、あえて一つのことに固執し、その枠の中でそれを成熟させて行こうとする中から新しいものが生み出されてくる、という考え方。 例えばポルシェ。スポーツカーとしてはけっして恵まれた条件ではないRR:リア・エンジン・リア・ドライブを何十年も踏襲し続け、それを成熟させて行く過程がポルシェそのものである、といった考え方。
 そして、後年ルノーがターボ開発で見せたパイオニアの苦悩の価値を理解する者は、宗一郎の周りには、河島を除いていなかった。河島は本社の常務で、研究所にはいない。


2001年4月10日:本田宗一郎物語(第111回) につづく


参考文献:「HONDA F1 1964−1968」ニ玄社

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