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2001年3月27日:本田宗一郎物語(第97回)

本田宗一郎物語(第97回)

 3000ccエンジンを搭載したホンダの最新鋭F1マシン、RA273がデビューしたのは、1966年9月4日。モンツァで開かれた、イタリア・グランプリがその舞台となった。サーキットを一度も実走しないままのグランプリ出場であった。
 当然ながら、熟成不足が懸念された。エンジンや足まわりに細かいトラブルも発生した。しかし、コーナーが少なく、ヨーロッパ屈指の高速サーキットとして知られるモンツァのサーキット構成は、400馬力以上のパワーを有するRA273に有利にはたらいた。公式予選で、ギンサーは出走車二十台中七位の好位置をつかみ取ったのである。
 本選が始まると、ホンダ・エンジンはその本領をのびやかに発揮した。十三周目には二位に浮上し、トップにいるフェラーリのスカルフィオッティに肉薄する勢いを見せたのだ。だが十八周目、トラブルはいきなり、それもホンダ・スタッフのすぐ近くで起きた。ピット前のストレートを250km以上の猛スピードで走り抜け、第一コーナーのクルヴァ・グランデにさしかかったとき、左リア・タイヤが突然バーストしたのである。コントロールを失ったマシンはガードレールを飛び越え、コースの外の立木に激突して止まった。
 誰もが慄然となった。胸と脚を強打したギンサーは、ヘリコプターで直ちに病院へと運ばれた。診断は鎖骨骨折。だが、それだけですんだことが奇跡に思えるほど、激しく荒々しいクラッシュであった。

 アクシデントの原因ははっきりしていた。グッドイヤーのレース・タイヤが、RA273の叩き出すパワーに耐えきれなかったのである。テスト不足は誰の目にも明らかであった。そしてこのイタリア・グランプリは、1966年のホンダF1を象徴するレースとなった。残りのレースでも、RA273が本来のパワーを生かしきることはなかった。

 F1のエンジンを設計した入交のイタリアからの帰国を、研究所の上司が羽田で待ち受けていた。上司は入交じりにこう告げた。
「軽四輪を生産することになったから、お前はそのエンジンを作れ。F1はこれで終わりだ」
 シーズン中にエンジンの責任者がいなくなるというのは、通常の事態ではない。このときすでに宗一郎はついにレースからの撤退を決意したのである。

 後に爆発的なヒットとなり、日本のモータリゼーションの幕開けを担うN360のデビューが控えていた。宗一郎はレースが好きで、世界一が好きであったが、しかし世間で言われているように、それに固執したわけではない。宗一郎の夢は、自分が設計した素晴らしい車が、たくさんの人の役に立ち、愛されることだった。
 本田宗一郎のレース活動中止の決断に反発するかのように、1966年の秋、ホンダのレーシング・チームは空前の快挙を次々に成し遂げた。
 9月には、二輪のグランプリ・レースで史上初の五階級制覇を達成。有終の美を飾るというにはあまりに輝かしい結果を、ホンダとレース界の歴史に刻み込んだ。
 そして、F2の快進撃はとどまるところを知らなかった。10月30日の最終戦を残して、ブラバム・ホンダはそれまでの全戦に全勝。後にも先にも例のない、十一連勝という未踏の領域を爆走していたのである。しかも十一勝のうち、五つはブラバムとハルムのワン・ツー・フィニッシュというすさまじさであった。また、全勝できなかったのは、ブラバムがあえてそうしなかったというのが現在の通説である。やりすぎはよくない、と最終戦には遅刻をしてきたのである。
 レース活動中止に反対したのは、中村をはじめとするF1チームだった。営業に対する配慮、技術者に対する配慮から、苦し紛れに宗一郎は次のような提案を出した。
 「N360は、社運をかけた車だ。F1を続けることが、この車の販売を促進するものであるなら、許可しよう。N360は空冷エンジンだ。つまりF1も空冷エンジンを用意するならOKということだ」
 F1の魅力は悪魔の魅力だ。その現場に関わったものは、魂を奪われる。ホンダの第二期F1参戦時に、数々の栄光をもたらした二人の監督、桜井、後藤。ともに、その任務を終え交代の時期に、本社には帰らず、退社してしまうのである。
 第一1期のメンバーも同じであった。何としてでも、F1を続けたかった。そしておやじがまさか本気で空冷のF1エンジンを作れと言っているとは、中村も久米も川本の入交じりも思っていなかったのである。
 かくして、N360の販売後方支援の形で、ということでF1が続行されることになった。


2001年3月28日:本田宗一郎物語(第98回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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