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2001年3月12日:本田宗一郎物語(第82回)

  本田宗一郎物語(第82回)

 初陣のドイツ・グランプリを終え、期待以上の成果をあげたホンダF1チームは、足元が浮き立つような軽い躁状態のなかにいた。
「あのまま走っていたらなあ。初出場・初完走・初入賞まで可能だったかもしれないな」
「終わったことはいいよ。次のモンツァは直線が長い。表彰台も夢じゃないよ」
 メカニックやエンジニアたちは目を輝かせ、希望に満ちた会話をしきりに交わした。
 次のイタリア・グランプリまでは約一か月。中村は、スタッフの労をねぎらって短い休暇を与えた。RA271のテストをしようにも、ニュールブルクリンクで大破したマシンは修理の施しようがない状態だったのである。だが、大部分のスタッフはアロストを離れようとしなかった。新しいマシンの到着を待ちわびていたのだ。
 アロスト工場に日本からRA271の二号車が送られてきたのは、休みが明けて間もない日のことだった。早く車にさわりたくてうずうずしていたスタッフは、各パーツごとに梱包された荷物を取り囲み、われ先にと荷ほどきにかかった。
「おい、ていねいにやってくれよ。ぴかぴかの新車なんだからな」
 笑顔で言い、中村は作業場をあとにした。次のグランプリに向けて、こなしておくべき書類仕事や煩雑な交渉はいやになるほどたくさんあった。F1を戦うことは、監督の中村にとって、それらを乗り越えてゆくことでもあった。
「おい、見ろよ、これ……」
 メカニックの一人が顔色を変えたのは、中村が立ち去った直後のことであった。

 所用をすませた中村は、夜遅い時間であるにもかかわらず、いったん工場に戻った。二号車を見ておきたかったのである。クルーは、まだ全員が残って作業をしていた。
「みんな早く帰った方がいいぞ。明日からまた忙しくなるんだからな」
 中村は笑顔で声をかけた。目の前には、フロントとリヤのカウル、エンジンとリヤ・サスペンションを残して組み上がったRA271が、真新しいボディを鈍く輝かせて鎮座している。この車が、胸のすくようなスピードでモンツァのストレートを疾走するところを想像すると、自然に頬がゆるんだ。
「あの、監督……」
 チーフ・メカニックが立ち上がり、歯切れの悪い口調でいった。その硬い表情を目にして、中村の顔からもすっと笑みが消えた。
「どうした」
「インジェクション(噴射装置)なんですが……」
 いやな予感がした。置かれた台の上から盛り上がるような威容を示すエンジンに、中村は無言で近づいた。
 燃料の供給システムからは12連のキャブレターが消え、新たに燃料噴射装置が取り付けられている。そこには、中村が要請したイギリスのメーカー名ではなく、HONDAの文字が刻まれていた。
「なんてこった……」
 中村は素早く時計を見た。日本は真夜中の時間帯である。電話はできない。いや、しても結果は同じだろう。
「それで、キャブの方は?」
「梱包されていませんでした」
 確かに、俺は、12連のキャブレターは調整が大変だ、と文句は言った。だから燃料噴射装置を取り付けてくれとも言った。ただ、おれが言ったのは、ルーカス製のものが欲しいという意味だった。まさか、自前のものを用意するとは思わなかった。こんなことになるのだったら、この前走らせ実績のある12連のキャブレターのほうがましだった。中村はそう毒づいた。
「……」
「とにかくこれを使え、そういうことか……」
 中村の口から大きなため息がもれた。
「頑固おやじめ。こんなことをしていたらいつまでたっても勝てないぞ。いったい何を考えているのか、俺にはわからん」
 若いスタッフが、こわごわと、しかしはっきりと中村に言った。
「お言葉ですが、僕は、おやじさんを尊敬しています。あまりおやじさんの悪口はいわないでください」
「……」
「僕は、監督の考えにも矛盾があると思います。この前のドイツで、決勝の時まで、監督は文句ばかり言っていました。しかし、直線でどのマシンより早く、周回を重ねるごとに順位をあげてくるにつけ、監督も僕達も興奮していました。それをもたらしたのは、僕達ではなく、おやじさんのコンセプトの上でできあがった重いけれどもタフでパワフルなエンジン、佐野さんが作った新しいコンセプトのシャシーのおかげだったのではないでしょうか」
「……」
「そして、監督自身もおっしゃっていました。が、RA271の調整をきちんとすれば、いい線いくかもしれない、って。でも、監督は、その後も、ギアボックスとエンジンが一体になっている構造や、12連のキャブレターの文句を言われていました。実績のあるものを調整すればいい線いくかもしれないなら、どうして日本に、キャブレターはだめだと文句を言われたのですか?」
「……」
「僕だって、監督が、おやじさんに12連キャブはだめだ、と言ったら、おやじさんは自前の燃料噴射装置を用意してくることぐらい想像できました。おやじさんが何を望んでいるのか、誰だって知っています」
「……」
「それに、監督は、定評のあるルーカスの燃料噴射装置を、と言われてますが、前代未聞の超高回転のうちのエンジンとの相性に、自信がおありなのですか。実はそれだって未知数なんではないんですか?」
「……」
「ただ、F1レース界は特殊です。僕だって、なにもかも犠牲にしても勝ちたいを思うようになってきてしまっています。だから……」
「もう、いい。きょうは帰って寝ろ」
「いいえ、まだ組みあがっていませんから」

 こうしてチーム内の不協和音は大きくなっていったのである。


2001年3月13日:本田宗一郎物語(第83回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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