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2001年2月26日:本田宗一郎物語(第68回)


  本田宗一郎物語(第68回)

 まず、やってみろ。
 昭和36年(1961年)の生産調整は、ホンダイズムの出発点ともいえる宗一郎の理念を、別の光源から社員たちがこぞって照らし出す結果を導いた。
 生産調整をする会社は危ない会社、と思われる時代であった。しかし、その決定が下るや、社内で新しいアイディアが次々と噴出してきたのである。いわく、
 生産を止めている間に、工場の機械類を総点検できますね。
 営業面では、在庫調整をする絶好のチャンスですよ。
 購買部門では、非常時の生産調整に対するノウハウを研究します。
 労務としては、一斉休暇で従業員の志気がどうなるかを知りたい。福利厚生の機会とはとらえられないか?
 ホンダという会社を愛する社員たちが、自ら提案してきたのであった。

 続く昭和37年は、宗一郎に大きな悲しみと喜びを等しく味わわせた年となった。父・本田儀平の享年八十三での死去と、鈴鹿サーキットの落成である。
 父から厳しく言われた「人に迷惑をかけるな」という戒めは、宗一郎という人間のなかで血肉化していたといってよい。公害という言葉さえない創業時から、本田技研が排煙や排水に細心の注意を払ってきたことはその現れである。
 鈴鹿工場建設の折には、井戸を掘って水を供給するという鈴鹿市の申し出を辞退し、自社で井戸を掘っている。道路もしかりであった。
 また、このとき宗一郎は、
「生活協同組合をつくるなよ、不便かもしれないが、町の商店で物を買って、地元の人に喜ばれるようにすること」
と厳命している。ヨーロッパでオートバイレースが地域文化として根付いていることに驚き、それを目標にしなくてはならないと思っていたからである。
 愛される工場にせよ。宗一郎が言い、ホンダの社員はそれを理解し、進んで努力する。宗一郎はそれを生涯の誇りとした。父の儀平も、それを喜んでいたに違いない。

 言うまでもなく、宗一郎が最も嫌った迷惑は、顧客に対するものであった。下請けのメーカーに対する次の発言は、その姿勢を明快に語っている。
「ビス一本が不良であっても、ホンダの製品は不完全のそしりを免れ得ないのです。下請け各位よりお納めいただく部品に対して、わが社で検査をおこなうことは大きな侮辱であることをご理解ください。その上で、絶対に自信のある120パーセントの製品をお納めくださるように切にお願い申しあげます」
 宗一郎が販売関係の社員を烈火のごとく叱りつけるのは、顧客に迷惑をかけたことがはっきりしている場合に限られていた。
「99パーセントの合格率といえば優秀と思っているかもしれないが冗談じゃない。残り1パーセントの不合格が製品となってお客さまの手に渡った場合には、100パーセントの不合格品をお渡ししたことになるんだぞ」
 ドリーム号220cc。あるいはアメリカでのスーパーカブ号。製品にトラブルが生じたとき、宗一郎がどれほど苦悩し煩悶したかは想像するに余りある。しかし、それらを自ら解決してみせるのが、本田宗一郎という男でもあった。

 一方の鈴鹿サーキット。このレース場の建設は、宗一郎の切実な願いであった。宗一郎にとって、レースは道楽でも、勝ち負けに一喜一憂するためのものでもなく、技術革新の場であり、文化振興の場であり、日本工業界や、次世代をになう若者達に夢を与える場所だったのである。
 サーキットの建設が決まってからは、宗一郎のアイディアを具現化する藤沢の出番であった。日本に、まだ高速道路のない時代、砂利からコンクリートの組成まで研究するところから本田技研は始めなければならなかった。藤沢は、施行業者である日本鋪道の技術者を、ホンダの資金を使って世界各地に派遣した。同時に、コースのコーナー角度や安全性、レースの運営や管理のあり方についても実地に習得させた。コースの設計にあたっては本場ヨーロッパのドイツ人に依頼したのであった。
 また国際規格に基づく、日本でのアマチュアのレース規制を始めたのが藤沢であることはあまり知られていない事実である。藤沢は、初めて宗一郎と会ったときの約束をようやく果たせたような気持ちになっていた。
「交通手段というのは、箪笥や呉服を売るのとは違って、人間の生命に関することだ。その点にいちばん気をつけなければならないとおれは考えている」
「わかった。それじゃお金の方は私が引き受けますよ」
 今から40年近く前の話である。現在鈴鹿サーキットでは、オートバイの国際グランプリ、鈴鹿8時間耐久レース、そしてF1と数々の名勝負と名ライダー、名ドライバーを生み出すサーキットとして世界的にも有名であることは読者の方もすでにご存知のことと思う。会社創世期にこのようなサーキットを建設したことを私達は忘れてならないのである。
 藤沢と出会ってから十三年が経ち、宗一郎は五十五歳になっていた。昭和37年の決算はそれまでになくすばらしいものであり、宗一郎は最大の夢である、四輪への進出をいよいよ形にしようとしていた。前途は洋々と広がっているかに思えた。だが、その矢先、とんでもない事態が本田技研を襲うのである。


2001年2月27日:本田宗一郎物語(第69回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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