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2001年2月20日:本田宗一郎物語(第62回)

  本田宗一郎物語(第62回)

 昭和が30年代に入った頃から、国内の二輪業界には嵐が吹き荒れた。淘汰という強大な嵐である。一時は二百社を数えたオートバイ・メーカーは数十社に激減した。そのなかでも国内レースに出場する力を持つ他メーカーは三十社に満たず、これらも上位数社による寡占化に向けて次第に脱落してゆく。その生存競争のすさまじさを如実に示したのが、戦前からの老舗で、多くのファンを持つキャブトン号で名を馳せたみずほ自動車の、昭和31年1月の倒産であった。
 なおも嵐は続いた。陸王モーターサイクルが落ち、目黒製作所が消える。最大のライバルであったトーハツこと東京発動機も敗退する。櫛の歯をへし折るように脱落するメーカーのなかには、名車ライラックを生み出した丸正自動車の名もあった。
 同社の社長は、伊藤正。浜松のアート商会時代に、宗一郎の弟子として力を尽くした人物である。伊藤はその後、海外向けの大型バイクに再起の夢を賭けたが果たせず、業界からひっそりと姿を消した。本田技研のライバル会社からの業務提携の申し出を断り、宗一郎に助力を乞うことも潔しとしない。かつて宗一郎がアート商会浜松市店を閉鎖する折、独立の道を選びとった伊藤の、いかにも伊藤らしい幕の引き方であった。

 125cc、250ccで勝てなかった第2回浅間レースが終わってしばらくしたある日のことである。
 藤沢のところへ電話があった。
「よう、専務! ちょっと来てくれないか」
「すぐに行く」
 来たか、と藤沢は思った。ドイツ・イタリア旅行からほぼ1年である。受話器を置いた藤沢は、「そうか、できたか」と一人つぶやいた。

「どうだい、専務、すごいだろ」
「うむー」
「かっこいいだろう」
「かっこいいな」
「こんなんで、いいか」
「いい」
「かっこだけじゃないんだぜ、お前がこだわった50ccだがな、1万近く回って4.3馬力も出るんだぞ」
「・・・・」
「かっこがよくたって、パワーがなきゃな。実用車だが、パワーはレーサーだ」
「そんなにパワーがあって、誰にでも乗れるのか」
「そうこなくっちゃな。ほら、こんなに軽いんだぞ。55キロだ」
「そうか、重さはわかったが、運転のしやすさのことさ」
「その工夫もしてあるんだ。いいか、オートマとはいかなかったが、オートマみたいなもんだ」
「ふむー」
「それにな、こいつは片手で乗れるんだ」
「それが何か」
「そば屋さ」
「出前か」
「そうだ、片手で運転できるっちゅうのは、本当は警察には悪いんだが、出前には必要なんだ」
「そうか、さすが、社長だ」
「当たり前よ。俺が50ccのスクーターなんか、と言ったら、お前に社長らしくない、て言われてよ」
「ああ、言った言った」
「アッタマきてよ」
「そうだろうな」
「どうだ、技術の力がわかったか」
「とうにわかってるよ」
「で、どうだい、月に2,3千は売れるか?」
「月2万、いや3万かな」
「え! 3万台、ちょっと待てよ。うちの売上台数は、6、7千台ぐらいだろう。3万っていったら、4倍じゃないか。これ1車種で3万か?」
「売れるさ、みてろよ」
「そうか」
「大丈夫だろうな?生産の方」
「大丈夫だと思うが」
「社長にしては弱気だな」
「だって、月3万なんて考えてなかったからな。そうか月3万か、そうか」

 宗一郎ばかりでなく、その場にいた誰もが息を呑んだ。ドリーム号とベンリイ号を合わせても月に六、七千台、日本全国の二輪車の販売台数が2万台程度という時代である。世界最高記録がドイツのNSUで、それも月産2万台。
 3万というのは、まさに途方もない数字であった。
 こうして誕生したスーパーカブは、藤沢が予言した通り空前絶後のベストセラーとなり、藤沢・本田両氏が去った今も、世界中で売れつづけているのである。


2001年2月21日:本田宗一郎物語(第63回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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