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2001年2月16日:本田宗一郎物語(第58回)

  本田宗一郎物語(第58回)

「よし、もっとだ。もっと回せ!」
 壁を突き破るほどの爆音が満ちる研究室に、宗一郎の盛んな檄が飛んだ。緊張して見ている開発陣の目の前で、エンジンから白い煙が出始めた。
「おやじさん、駄目です。限界ですッ」
 久米が叫ぶ。
 エンジンが振動し始めた。
 そう思うか思わないうちに、爆破音、すくなくとも開発者達にはそう思える音とともに、白い煙とオイルの焼ける臭いがあたりにひろまり、部屋は静かになった。その静けさのなかに、失望のため息があちこちから聞こえた。
 真っ先に動いたのは宗一郎であった。熱いエンジンを冷めるのもまたずに分解しようとしている。
 レーサー用エンジンの開発にあたって、宗一郎が真っ先に課題にしたのは回転数だった。それまで毎分三千回転、最高でも四千回転程度だったものを、宗一郎は一気に八千から一万回転に引き上げようとしたのである。単純に計算をすれば、回転数を2倍にすると出力は2倍になる。しかし、回転を上げるためには部品の軽量化が不可欠となる。そしてまた各部品のバランスと精度が高くなければ振動を起こし、耐久性が問題となる。そういった問題のため高回転型のエンジンはまだ世の中になかった。したがって、すべての部品を自分達で開発しなければならなかったのである。海外から部品を調達してオートバイを組み立てることはハナから考えていなかった。それでは海外のオートバイに追いつけても、決して追い越せないことを宗一郎は知っていたし。また、宗一郎にとっては勝つことも大事ではあったが、日本の工業界の発展も大切だったのである。
「ふうむ……」
 エンジンの熱さと飛び散るオイルに悩まされながらも、自らスパナを手に分解した宗一郎は、壊れたコンロッド(ピストンの上下運動をクランクシャフトに伝える部品である)を指先でつついた。
「おい久米、コンロッドをもっと細く軽く設計しなおせ。バランスのことも十分考えるんだぞ!」
「はい」
「それからベアリングだが、これももっと小さく軽くするんだ。中のローラーの数も減らせ」
「ベアリングのローラーを小さくしたり、数をへらすと、高回転は望めないのではないでしょうか?」
「バカヤローッ!」
と言うがはやいか、宗一郎は近くにあったスパナをつかみ、久米の額を殴りつけた。
「どうしてそんなことがお前にわかる! 俺のいない間に実験したのか」
「いいえ」
「実験もしないうちに、どうしてそうものごとを断定するんだ」
「すんません」
「いいか、俺たちは、世の中にないものを作っているんだ。俺たちに教科書はないんだぞ。どんなことだって、実際にやってみて、自分の手で確かめなくちゃならんことぐらい、わからんのか? それがわからんなら、今すぐやめてしまえ」
「自分が間違っていました。続けさせてください」
「さっさとはじめろ」
「はい」

 宗一郎の気迫に押され頭を下げたものの、久米のショックは大きかった。トイレに行くそぶりで研究室を離れ、久米は手洗所でばしゃばしゃと顔を洗った。鏡に映った顔は濡れて青ざめ、スパナに直撃された額には大きな瘤が盛り上がりはじめている。この先自分はここでやっていけるだろうか、と久米は思った。
「ほう、これはまた見事に腫れたもんだ。色男が台無しだ」
 はっと見ると、鏡の奥に、笑って立つ河島の姿があった。
「からかわないでくださいよ……。本当に滅入ってるんですから」
 額の瘤を指先でそっと押さえる久米の隣に立ち、河島は手を洗いながら言った。
「まあ、元服の儀式だと思うんだな。おやじに怒鳴られ、殴られて、お前もようやく、おやじに期待された、ということなんだ」
「そうでしょうか」
「そうさ、おやじは、本気でお前にぶつかったんだ。それはお前を一人前だと思っているからだ」
「人が、あんなに恐ろしくみえたことはありません」
「そうだな。でもな、おやじは人ではないんだぞ」
「ハハハ、そうですね」
「とにかく、おやじの言う通りにやってみてくれ。今までもそうだったが、一見常識はずれの発想が思いもよらない成果に結びつくんだ。まったく、神ががかった直観力があるんだ、おやじにはな」
「……わかりました。やってみます」

 宗一郎は、エンジンを小さくし、パワーは大きくするという、一見矛盾に満ちた技術の開発に挑んでいた。さらに、宗一郎はエンジンの機構だけではなく、燃焼にも着目していた。世界的にみても、この時期にガソリンの燃焼という課題に注目した人はいない。ガソリンにある一定の空気を混ぜ火をつければ爆発する、それは常識であり、その中に効率、つまり燃焼効率というものがあるということすら、気付かれてなかったのである。読者はすでにお分かりだと思うが、世界でもっともクリーンで、もっとも燃費のいいエンジンを生産しているのはホンダである。その伝統はここから来るのである。

 困難に向き合うと、宗一郎の生活は仕事一色に塗りつぶされた。一週間も二週間も家に帰らないのは当たり前で、三日三晩、睡眠も食事もとらずに研究に熱中することも珍しくなかった。ある日、研究室から出てきた宗一郎は、河島に向かってこう言ったものだ。
「おい、腹がへったなあ。おれ、生きていることを忘れていたよ」
 こうして、本田技研が激動に揺れた昭和29年は過ぎた。折しも、この年に開かれたジュネーヴ国際会議で世界は平和共存への一大転機を迎え、日本も戦後の苦しい記憶からようやく脱しきろうとしていた。社会も、落ち着きを取り戻しつつあったのである。
 そして迎えた昭和30(1955)年。本田技研は、T・Tレースをにらんだ研究・開発の最初の成果を発表する。
 ドリーム号SA型、4サイクル・OHC・246cc・10.5馬力。発売は5月。
 OHV:オーバーヘッドバルブではなく、OHC?
 そう、OHC:オーバーヘッドカムシャフト。


2001年2月17日:本田宗一郎物語(第59回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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