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2001年2月14日:本田宗一郎物語(第56回)

  本田宗一郎物語(第56回)

 激しいトップ争いを演じる数台のオートバイの姿が見えた。目の前を通り過ぎた。見えなくなった。あっという間の出来事だった。次の集団も、それに続く一群も同じだった。 ぽかんと口を開いたまま、宗一郎は声を失った。愕然とするしかなかった。
 オートバイの群れが過ぎると、宗一郎は通訳として同行している男に向かって訊いた。
「これは125ccのレースかね?」
 口の中がからからに乾いて、ひどく声が出しにくかった。
「ええ、そうです。前評判通り、ドイツのNSUとイタリアのジレーラの争いになりそうですね」
 海外生活が長く、幾度もレース観戦してきたらしい男は、あっさりとそう応える。
「まいったな……、あれで125か……、まいったな」
 本田技研製のバイクの、ゆうに三倍はパワーがありそうだった。回転数の圧倒的な違いは、エンジン音から容易に聞き取れた。宗一郎が見つめるコーナーに、先頭集団が小さい点になって現れた。と思うと、点はたちまち大きさを増し、風になって眼前を通り抜けた。

 最新鋭のレーサー(競争車)を、世界の超一流ライダーが操り、テクニックとスピードを競う。モーターサイクルのオリンピックと呼ばれるだけのことはあった。T・Tレースのレベルの高さは、宗一郎の想像をはるかに超えていた。
 世界の壁は高く、厚かった。
 工業技術の差。
 ライダーの技量の差。
 これらは、すぐには無理でもなんとかなるかもしれない、と宗一郎は思った。しかし、いくら自分でも、これは不可能かもしれない、と絶望的な気持ちになることが一つあった。それは、モータースポーツが文化として地域に根付いているという点だった。宗一郎のすぐれた直感は、それを強く意識した。今の日本で、いや10年後の日本でもいい、このようなレースが開けるだろうか?
 もし、日本でこのようなレースが開けないのなら、自分達が高性能なレーサーを開発することにどんな意味があるのだろうか? そう考えていくうちに宗一郎は、絶望的な気持ちになった。
 しかし、宗一郎は、本田宗一郎であった。そういった文化を自分達の工場や工場のある地域から作ればいいんだ、と覚悟したのだった。このことは藤沢とも話さなくちゃいかん。外国人から、日本の若者がうらやましい、なぜなら世界一高性能なマシンを気軽に買えるのだから、と言われるようにならなくてはいけないのだ。日本で国際的なレースが開かれる。そして日本人ライダーが本田のマシンに乗って優勝する。オートバイを作っていくなら、それくらいの覚悟がなきゃいかんのだ。そう思ったとき、技術的な課題などたいしたことはない、と宗一郎には思えてきたのだった。
 レースは終盤を迎え、刃の先を削るようなトップ争いが展開されていた。速く走る、その目的だけのために見事にシェイプアップされた車体を、宗一郎は食い入るように見つめた。その両眼には、燃えるような闘争心が早くも閃いていた。おれは文化を作るのだ。

 マン島から離れ、各国の工場を視察したのち、宗一郎は羽田へと降り立った。待っていた藤沢は、宗一郎の姿を見るなり、眼鏡の奥の目を丸くした。あちこちがおかしな形に飛び出した、大きく重そうな鞄をいくつも引きずるように持つ宗一郎の上着は、これもまた異常な形に膨れ、歪んでいる。
「どうしたんだよ、社長、その格好は」
「ああ、専務、助かった。荷物を持ってくれないか」
 預かった鞄は、大柄な藤沢が足をよろつかせるほど重かった。
「な、何だよ、これは。何が入ってるんだ?」
「へへへ、レース用のオートバイ部品さ」
「ポケットに入っているのもか」
「ポケットだけじゃないぞ」
「そのようだな」
「そうさ、全部部品だ。おかげでスッカラカンさ」
「で、どうしてまた、体にくくり着けてまで?」
「どうしてって、荷物が、重量オーバーなのさ。で、連中、金を払えとさ。ところが、金は全部、部品に化けてな」
「・・・・・」
「で、連中、なら部品を置いてけって言うんだ。テヤンデェー、今の俺には、命より大切な部品だ。置いてけるわけないだろう」
「で、体に・・・・」
「そうさ。で、言ってやったんだ。この部品はな、着物だ。これはな、アクセサリーだ。文句あんか?てさ」
「・・・・・」
「それでも、だめだ、と言うから言ってやったんだ。あそこにいるデブより俺の方が軽いだろう。そこのババアーよりも軽いだろう。その分、俺の着物が重くったて、文句はあるまい、てな」
「・・・・・」
「で、連中、最後には、あきれて、わかった、わかった、と通してくれたわけさ」
「でも、飛行機の中で、さぞ」
「今の俺にとっちゃ、命より大切なもんなんだ。苦痛であるわけないだろう。部品を抱っこしておねんねよ」
藤沢はあきれた。たくさんの小さな部品、それらはわかる、しかし、チェーンあり、チューブあり、スポークあり、そして圧巻は身体にまきつけてきたタイヤである。狭い機内のシートで、1日近くそれらにまみれて。藤沢は、自分の人生を宗一郎に捧げたのは間違いではなかったと、改めて思ったのだった。
 そんな藤沢に、意地悪そうな眼差しで、宗一郎が言った。
「一番の土産はこれさ」
 宗一郎の指先が、ポケットに消えた。何か小さい物を探るように動く。
「これだよ、わかるか」
 爪の先でつまむように宗一郎が取り出した物を見て、藤沢は意外そうな声をあげた。
「何だよ、ただのネジじゃないか」
「向こうの工場の床に落ちてたのをこっそり拾ってきたんだがな」
 自分のいたずらを誇る少年のような表情で笑うと、宗一郎はこう付け足した。
「ただのネジじゃないぜ。よく見てみろよ」
 不思議そうな顔になって、藤沢は宗一郎の指先からネジを受け取った。何の変哲もなく見えたその一本のネジが、やがて日本の工業界に革命的な発展をもたらすことになるのを、藤沢はまだ知らない。


2001年2月15日:本田宗一郎物語(第57回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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