Ws Home Page (今日の連載小説)


2001年2月10日:本田宗一郎物語(第52回)

  本田宗一郎物語(第52回)

 東京に戻った藤沢は、本田技研の全工場に減産体制を敷くように指示を出したのち、すぐさま次の行動に出た。在庫部品の調整と、協力メーカーの説得である。本社の会議室に外注業者の代表を集めた藤沢は、窮状に至ったいきさつを説明し、最後にこう言った。
「ですので、お金は払えません」
 ざわついていた室内が、しんと静まった。
「これから納入していただく品物の量は当然減ります。その代金も当面は30パーセントに抑えていただきたい。厚かましいお願いと承知の上で申し上げます」
 藤沢に対する罵声と糾弾の声があふれ、会議室は騒然となった。憤激に立ち上がって拳を振るう者も次々に現れる。声を絞って藤沢は続けた。
「ただし、いま皆さんにお渡ししてある手形は落とします。必ず落とすことができます。その間に、われわれはいい製品を作っていきます。本田技研が生き残る道は他にないのです。なにとぞご勘弁ください!」
 深く頭をたれた藤沢に、業者の一人が落ち着いた口調で言った。
「ホンダさんも相当お苦しいようだ。今おっしゃったことは、とてもわれわれに頼める筋合いのものではありませんね」
 同調する声が、はじけるように室内に満ちる。業者は、藤沢にも顔なじみの河口という男であった。そして周りの業者を抑えるように、河口は付け加えた。
「しかし、その言いにくいことをあえて口にされた。正直わたしにはそんな勇気はありません。勇気はありませんが、敬意を表することはできます。協力させていただきます」
「河口さん、あんた何を言い出すんだ。気でも違ったんじゃないのか!」
 一斉に非難の叫びをあげる他の業者たちに向かって、河口は敢然と声を張った。
「皆さん。われわれは本田技研が東京に来てから、結構いい商売をさせてもらった。違いますか?」
 これに反論できる者はいない。なおもざわつく一同に、河口は決意のこもった口調で言った。
「そのホンダが倒産の瀬戸際に立たされている。ここで背を向けたら男がすたると思いませんか?」
「男がどうのとか、そういう問題じゃないだろう。こっちは生活がかかってるんだ」
 ぼそぼそと言う男に、数人が同調する。河口は冷静な声になって続けた。
「では、ホンダを潰して、みんなで取れるものを取り合うのですか?そうすれば、あなたの会社は救われるのですか?本田あってのわれわれだってことを忘れちゃいけない。ホンダが助かれば、われわれも救われるんじゃないですか」
 それは、本田技研が倒れれば、協力メーカーも共倒れになるしかない、という示唆でもあった。ざわついていた連中が、先刻までとは一転して、訴えるような目を藤沢に向ける。河口も藤沢を見て、一語一語に力をこめて言った。
「ここはひとつ、ホンダさんに頑張ってもらおうじゃありませんか」
「ようし、死なばもろともだ。おれはホンダに賭けるぞ」
 一人が声をあげると、熱が伝わるように他の業者たちも次々に賛同を示した。そして全員の目が藤沢に向いた。
「河口さん、皆さん……ありがとうございます」
 眼鏡の奥にあふれるものを隠そうとするように、藤沢は深々と頭を下げた。

 次に藤沢が向かった先は銀行である。目的は金策ではなかった。藤沢が何よりもおそれたのは、本田技研という企業のイメージの低下であった。よい評判を得るには長い年月がかかるが、悪評が出回って拡散し、定着するまでには一日とかからない。担当者と面談し、生産調整を実施する旨を説明した上で融資の約束を取り付けると、藤沢は身を乗り出して告げた。
「お願いがあります。もしも、どこかの会社からうちの様子を訊かれたら、本田技研は大丈夫だ、そう言っていただきたいんです」
 企業が、他社の評価を銀行に求めるのは通例である。それだけ銀行が信頼されているわけだが、銀行側にはそれを裏切らないだけの正確な情報提供が必須となる。担当者は、藤沢の真剣な眼をじっと見て、短く言った。
「承知しました」
「助かります」
 藤沢がハンカチで汗を拭うと、担当者の顔が、ふっと笑み崩れた。
「心配なのは、むしろ生産調整の方ですよ。そんなに簡単にできますかね」
「必ず。この私がやりとげます」
「でも、おたくの社長が・・・・」
「いや、あの人は筋の通ったことに反対はしません。それに生産調整といっても、機械を止めている間に、本田にいいものを作ってもらう段取りはしてあります。私と本田の関係を信じてください」
藤沢は間髪を入れずにそう答えた。
「よくわかりました」

 宗一郎は、何日も眠らず、工場にこもっていた。E型エンジンに発生したトラブルの原因は、キャブレターにある、と今では確信を持っていた。新しいキャブレターを作って問題を解決してみせる、E型エンジンの基本設計には問題はなかったことを証明してみせるんだ、と宗一郎は、新型のキャブレターの設計に明け暮れしていたのである。
 4月は終わり、街には初夏の爽やかな風が吹きはじめていた。


2001年2月11日:本田宗一郎物語(第53回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

Back
Home



Mail to : Wataru Shoji