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2001年2月2日:本田宗一郎物語(第44回)

  本田宗一郎物語(第44回)

 十条の工場に着いてからも、宗一郎は口を開かなかった。がらんとした駐車場に車を停めると、すたすたと早足で歩いてゆく。その背を、藤沢も無言で追った。
 薄暗い工場に人影はない。静まり返った構内を、宗一郎は灯りもつけずに足を早めて歩いた。やがて奥まった一角に、そこだけが生きて呼吸をしているように、ぽつんと光をともした部屋が見えた。ガラス戸の明るさに、藤沢はほっと息をつくほどの安堵を覚えた。
「入ってくれ」
 ガラス戸をきしませて開くと、そこは四畳ほどの狭い部屋だった。室内の真ん中に置かれた古い机の上には板が斜めに立て掛けられ、ちょうど製図台のような形になっている。その前に座っている人物を見て、藤沢は思わず大きな声を出した。
「河島君。きみも来てたのか」
「おはようございます」
 藤沢が来ることを知っていたらしく、河島は落ち着いた口調で応じた。徹夜明けなのか、身に着けたシャツはくしゃくしゃで、眼も赤い。しかしその表情からは、抑えきれない興奮が見てとれた。
「これを見てくれ」
 机の上に散乱するT定規やコンパスを取り除けていた宗一郎が、藤沢に向かって短く言った。見ると、製図台には、何度も描いたり消したりした跡のある、鉛筆書きの薄汚い紙が置かれている。
「何だよ、これは」
 いぶかしげに問う藤沢に、宗一郎は胸を反らせて応えた。
「新しいエンジンの設計図さ」
 はっと目を見張り、藤沢は直線と曲線の交錯する紙に見入った。宗一郎は、表情に自信をみなぎらせて言った。
「藤沢の望んでいた4サイクル・エンジンだよ」
 ことばを失った藤沢をじれったそうに見ると、宗一郎は図面におおいかぶさるように立ち、せっかちな早口で続けた。
「よそと違うのは、これがオーバーヘッド・バルブ方式ということだ。ここを見てくれ。バルブがシリンダーヘッドの上についているだろう。これがすべてを変えるんだ。出力を上げられるからスピードが出る。そうだ、音もいいぞ。とにかく理論的にはどこまでも進歩させられるエンジンなんだよ。それからトランスミッションはここだ」
 図面ではなく、口をとがらせて説明に熱中する宗一郎の顔を、藤沢はじっと見ている。
「……おい、どこを見てるんだ。いいか、このエンジンはだな」
「いや、もういいよ」
 藤沢は、宗一郎のことばをさえぎると、晴ればれとした笑みを広げて言った。
「おれは機械のことはよく知らないし、いくら話を聞いてもちんぷんかんぷんだ。でも、社長の顔を見ただけで、このエンジンの素晴らしさはわかったよ」
 そうか、と言い、宗一郎は図面に目を戻した。傍らでは、その図面を引いた河島が、細い目をさらに細くしてにこやかに笑っている。宗一郎は高らかに宣言するように、藤沢に向かって声を強めた。
「これでもう大丈夫だ。うちは大変な勢いで伸びるぞ」
「ああ。一気に巻き返しだな」
 世界一になってみせる。宗一郎の夢が、現実に向かって最初の一歩を踏み出した瞬間であった。

 昭和26(1951)年7月、最新のE型エンジンを載せたドリーム号E型の試作車が完成。4サイクルOHV方式・146ccの排気量を持つこのエンジンは、トランスミッションをエンジンと一体化させた、斬新でしかもコンパクトな製品であった。このE型が、現在に至るホンダの4サイクル・エンジンの系譜にとって、いわば始祖にあたる。約半世紀前、苦渋と困難をくぐった末の、革新を全身に帯びた誕生であった。


2001年2月3日:本田宗一郎物語(第45回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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