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2001年1月22日:本田宗一郎物語(第33回)

  本田宗一郎物語(第33回)

 第二次世界大戦の勃発は、国民の生活ばかりでなく、日本の産業を直撃した。もともと資源の乏しい国家が、四十もの国を相手に全面戦争に突入したとなれば、それも当然至極である。国内の工場で生産が許されるのは、兵器と軍需品に限られる体制が直ちに敷かれた。
 宗一郎の経営する東海精機も例外ではなかった。ただ幸いなことに、製造する物品の変更には至らなかった。ピストン・リングは、陸・海・空軍いずれもがエンジンのパーツとして必要としたからである。東海精機は豊田自動織機の傘下に入り、主に海軍用のピストン・リングを生産することになった。
「この工場には軍の期待するところも非常に大きい。生産方法が自動式に改良されているからです」
 従業員を相手に熱弁をふるうのは、豊田から取締役として送り込まれた石田退三。のちにトヨタ自工の社長となり、トヨタ中興の祖と呼ばれる人物である。
「しかも驚くべきことに、備えられた工作機械はすべて本田さんの手作りだ。他にはない技術力を生かして、どうかこれまで以上に高品質の製品を作るよう、いっそう努力していただきたい」
 昭和17(1942)年、東海精機はトヨタ資本四十%の軍需工場となり、磐田市西新町には新工場が建設された。
 ここで視座を五十数年後に移すと、興味深い事実が浮上する。現在、日本の自動車メーカーのうち、純粋な民族資本を維持し、なお健全経営をおこなっている会社はホンダとトヨタの二社にすぎない。未来の関係など知るべくもない戦前から、両者はこうした形ですでに関わりを持ちはじめていたのである。
 また、同じ年、宗一郎・さち夫妻には長男の博俊が誕生する。この博俊は、長じて、レーシング・エンジンを開発する『無限』の社長となるが、これもまた、歴史がこの年に用意した伏線のひとつであったかもしれない。無限は平成12(2000)年のF1シリーズでホンダと互角の成績を収め、惜しまれながらF1挑戦の幕を下ろすのである。父の遺産と子の野望が、同じ舞台で火花を散らすことになることなど予測さえできず、このときの宗一郎はただひとえに、初の男児誕生を手放しで喜んでいた。

 戦時下という尋常ならざる状況とはいえ、ピストン・リングの生産はとにかく軌道に乗った。こうなると、宗一郎はじっとしていられない。何かを作りたいという衝動が、手を、心を駆り立ててやまないのである。かといって、自動車を作るわけにはいかない。ふつふつとたぎる物作りの情熱を、宗一郎は工作機械の改良と発明に振り向けた。
「おい、大将。今夜も図面と首っ引きかい。今度は何を作るんだ?」
 宮本の問いかけに、宗一郎は図面から目も離さずに応えた。
「日本楽器から頼まれた仕事さ。あそこは今、木製のプロペラを作っているんだが、一本作るのに一週間もかかっている。そんなんじゃ、とても追いつかないからな」
「ほお。それでまた妙な機械を作ろうってわけか」
 宮本の言う妙な機械とは、旋盤を四つ合体させた、モデリング四軸旋盤と呼ばれる機械である。もともとピストン・リング生産用に発案したものを航空機部品の製作に応用し、高い能率をもたらすとして当時の軍需省に称賛されたばかりであった。
「今度のはもっとすごいぞ。こいつが完成すれば三十分で二本のプロペラができるんだ」
「三十分で? まさか」
 宮本は笑い飛ばしたが、そのまさかは、自動式カッターとして実現する。熟練工による手の労働を工作機械に肩代わりさせた宗一郎の貢献は、新聞に大々的に報じられるところとなった。記事の見出しは、『翼増産へ技術の凱歌 手の労働脱却』。宗一郎はのちに、百五十に余る特許を有する発明家ともなるが、まさにその面目躍如たるトピックであった。

 戦局は次第に悪化し、絶望感が国土を覆いはじめた昭和19(1944)年12月、疲弊した日本をさらに揺さぶるように、三重、和歌山県沖の熊野灘を震源とする東南海地震が発生。遠州地方は大被害を受ける。さらに翌昭和20(1945)年、浜松市は米軍の猛烈な艦砲射撃と執拗な空襲を浴び、市のほとんどが焼け野原となった。磐田工場は残ったものの、東海精機浜松工場も全焼。宗一郎は自ら築き上げたすべてを失い、8月15日の終戦を迎えたのである。

 何もかもが焼き尽くされたいちめんの瓦礫を前に、宗一郎は笑った。ただ笑った。
「なにがおかしいんです、兄さんッ」
 気色ばんだ弁二郎が、宗一郎に詰め寄る。宗一郎は笑いを消さずに応じた。
「見てみろよ、この見事な焼けっぷりを。いっそ気持ちがいいじゃないか。形あるもの永遠にあらず、神様がそう教えてくれているみたいだ」
 宗一郎の言う通り、何もなかった。視界には灰色にくすぶる焼け野原と、底の抜けたような青空だけが広がっていた。
「大将、これからどうするよ」
 焼け跡を靴の先でつつきながら、宮本が宗一郎に問いかけた。
「さて、どうするかなあ……、昨日まで軍部の顔色をうかがっていた連中が、今じゃ民主主義だの何だのとはしゃいでいる。信用も何もできない連中だ。今のおれには、世の中がどう変わっていくのかさっぱりわからんよ。それがわからなければ道も定まらないだろう。しばらく様子を見させてもらうさ」
 宗一郎は、自分のことばに従った。東海精機の権利をあっさりと豊田織機に売り渡すと、妻のさちの実家で遊興の日々を送り始めたのである。会社の権利の代わりに得た、当時で四十五万円という大金と、何ものにも束縛されない自由を宗一郎は手にしていた。


2001年1月23日:本田宗一郎物語(第34回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他



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