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2001年1月11日:本田宗一郎物語(第22回)

  本田宗一郎物語(第22回)

 工場というより作業場を拡大したような、ささやかな自動車修理工場であった。だが宗一郎は、看板は立派なものに仕上げさせた。『アート商會 エンヂン再生と車体塗装』。初めて上京し、圧倒されるように見上げたアート商会の看板をそのまま模したのである。
 東京で鍛えた腕には自信がある。同業者も市内にわずか二、三軒にすぎない。だが、いつかの盛岡出張のときと同じく、ここでも宗一郎の若さが災いした。
「えらく若い親方だなァ」
「なんでも去年徴兵検査を受けたばかりだってよ」
「東京で修業したっていうがな……」
「だめだめ。あの若さじゃあ危ねえもんだ」
 近隣に住む人たちは物珍しそうに工場を眺め、ひそひそ話には興じるものの、一向に近づいて来ようとしない。待てど暮らせど仕事の依頼は来ず、腕ばかりが鳴る日々はとうとう一か月に及んだ。
 街で、車のエンジンがかからずに困っている人に声をかけたこともある。
「この近くでアート商会という修理工場をやっている者なんですが、調べてみましょうか」
「なに商会だって? 聞いたことがないな」
「東京の有名な工場の支店です。とにかく見てみましょう」
「いや、いい。やめてくれ。なじみの修理工場に知らせるから」
 わけのわからぬ若僧に高価な車を触らせてたまるか、という意識が露骨に伝わってくる返事であった。
 だが宗一郎は、ただ手をこまねいて客待ちをしていたわけではなかった。どうせ空いている時間だ、そう割り切った宗一郎は、その間に腕を磨こうと決心したのである。
 当時、ダイナモ(発電機)は頻繁に故障する部品の代表のように言われながら、修理は不可能とされていた。新しいダイナモを取り寄せて交換するのは簡単だったが、客に高額な費用を強いることになる。そのダイナモの修理が、もし、うちの工場でできたら……そう思うと、宗一郎の胸は高鳴った。
 しかしいざ手を染めてみると、ダイナモを分解してコイルを解き、そのコイルを巻き直す作業は、いずれの工程も困難をきわめた。なかでもコイルの巻き換えには、気の遠くなるような根気と、細心の上にも細心な注意深さが要求され、いくら宗一郎の腕をもってしても、容易に達成できるものではなかった。宗一郎は失敗の山を築いた。だが、その山が高くなればなるだけ挑戦に没入できるのが、宗一郎という男であった。

 夕方から降り出した雨が、強い雷をともなって深夜には豪雨となった。その夜も宗一郎は、まだ一度も成功しないダイナモの巻き換えに遅くまで挑んでいた。それが幸いした。工場の戸を強く叩く音に続いて、
「だれかいないか!? 近くで車が故障して困ってるんだが、だれか!」
 雨音に負けまいと叫ぶ男の声が、宗一郎の耳に届いたのである。急いで出てみると、ずぶ濡れになった中年の紳士が身を震わせて立っていた。宗一郎は工場に一本だけ置いてある傘を男にわたすと、
「案内してください」
 それだけ言って、激しい雨のなかに飛び出した。

 内部が雨に濡れないよう注意深くボンネットを開け、懐中電灯の光でひとわたり点検してから、宗一郎は重い車を押し転がして工場に運び入れた。それ以上エンジンを雨にさらすわけには行かなかった。作業場に車を落ち着かせると、再びボンネットを開き、今度はじっくりと調べる。いらいらと待っている様子の男に、宗一郎は思いきって言ってみた。
「この車、一週間ばかり預からせていただけませんか」
 案の定、男は目を丸くして、あきれ返ったような声を出した。
「一週間? 冗談じゃない、そりゃ困るよ」
 男は、ごく最近、車を修理したばかりだと言い張る。だったらなおさら、と宗一郎は粘り強く続けた。
「可哀相ですよ。お願いですから、この車に時間をあげてください」
 男の顔に、おや、という興味深そうな色が動いた。
「面白いことを言うね、きみは」
 宗一郎は口をまっすぐ結び、挑むように男を見ている。男の脳裡に、どしゃ降りの雨のなかを傘もささずに走り、ボンネットを開けるときには、自分の上着でエンジンを覆っていた宗一郎の姿がよみがえった。
 男はふっと力を抜くと、わかったよ、と苦笑混じりに言った。
「きみの誠意に賭けてみよう」
 ぱっと灯りがついたように、宗一郎の顔が輝いた。
「ありがとうございます!」
 それからの一週間は、またたくまに過ぎていった。その間、自分がいつ休み、どうやって眠り、何を食べたのか、宗一郎はまったく憶えていなかった。充実感に満ちた、最高に幸せな時間でもあった。
 修理は、数時間を余して完璧に終わった。しかし、宗一郎にはまだすべきことがあった。残りの時間、宗一郎は車の内外を丹念に掃除し、最後にボディを磨きあげた。

「こ……これが私の車か。まるで新車じゃないか」
 チリひとつないフロアにためらいがちに足を乗せ、客の紳士はハンドルの前に座った。宗一郎がクランクを回し、エンジンが咆吼する。その瞬間、紳士は叫んでいた。
「こ、これが私の車だ! そうだ、この音だよ、この音。絶好調だった時は、こういう機嫌のいい音を出していたんだ!」
 客の顔は喜びに紅潮している。一方の宗一郎は、きれいに燃焼している排気ガスの匂いを嗅ぎ、至福のひとときを味わっていた。

 ぴかぴかになった車が、いかにも調子のよさそうなエンジン音を響かせて宗一郎の工場から出て行ったその日から、修理の依頼は雪が積もるように増えていった。宗一郎のていねいな仕事ぶりは評判を呼び、そうなると口コミの客まで訪れるようになる。閑古鳥が鳴いていた開店当初の状況は、悪い夢のごときものであった。その年の暮れには、約八十円の純益を、アート商会浜松支店は上げてみせたのである。


2001年1月12日:本田宗一郎物語(第23回) につづく




参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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