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2001年1月3日:本田宗一郎物語(第14回)

  本田宗一郎物語(第14回)

 いちめんの焼け野原のただなかに、焼けた自動車が何十台となく肩を寄せるようにしてうずくまっているのは、なんとも異様な眺めだった。できるだけ被害の少ないビュイックを何台か選んで買い入れ、宗一郎たちはまず、一台だけを神田のガード下の工場に運んだ。
 ぼろぼろに焼け崩れた他の車より相当まともに見えたビュイックだったが、一台だけで眺めてみると、状態は悲惨そのものだった。震災の炎にさらされてラバー製の部品はほぼ溶け落ち、エンジンもいったんパーツの段階まで分解して組み立て直すしか手はない。だが、鉄と焼け焦げた部品の黒いかたまりを前に、武者震いが宗一郎をおそった。
「よおし……」
 作業の困難さは容易に予測できた。それが宗一郎の闘志に火をつけた。自動車にさわりたくてうずうずしていた指先に、ようやく血が通ってきた感覚があった。
「とにかく走れるようにするんだ。オレたち自動車屋の腕の見せ所だぞ」
 榊原の声を待つまでもなく、宗一郎と北沢は作業服の袖をまくりあげ、今は残骸にしか見えないビュイックに挑みかかっていった。

 炎の力は、これほどすさまじいものか。並の故障車を修理するのとはあまりに勝手が違い、作業は難渋をきわめた。再生完了の日も定まらぬまま、三人は連日、深夜過ぎまで焼けたビュイックと格闘した。この時期、榊原のきめ細かい指導を受けることができたのは、その後の宗一郎にとって大きな財産となる。乾いた砂が水を吸うように、宗一郎は榊原の蓄積してきたすべてを吸収した。宗一郎の修理工としての技術は、日を追い、夜を継いでめきめきと上達していった。
「まったく、お前の物覚えのよさには感心するよりあきれるよ。修理工になるために生まれてきたようなもんだ」
 世辞でも称賛でもなく、それは掛け値のない榊原の本音であった。
 しかし修理は遅々として進まなかった。宗一郎は寝食を忘れ、昼も夜も作業に没頭した。覚えたばかりの技術を、目の前の自動車に向けてすぐに試すことができる。それが楽しくてならなかったのである。疲れはとうにピークを超えているはずなのに、その目から輝きが失せることはなかった。ひるまず、くじけず、嬉々として工具を操りつづける宗一郎の姿に、榊原と北沢は舌を巻いた。というより、半ば圧倒されていた。
「さあて、今夜はこのくらいにして寝るとするか」
 その夜も零時をとうに過ぎた刻限になって、榊原はようやく作業の手をとめた。大きく伸びをし、首を回して肩の凝りをほぐす榊原に、宗一郎はいつものように応えた。
「旦那さん、おれ、もう少しやらせてもらいます」
「おい本田、ここ何日もろくろく眠っていないだろうが」
 榊原は、さすがに気づかう口調になる。油まみれの顔を笑みの形にほころばせ、北沢がからかうように言った。
「旦那さん、放っておいた方がいいですよ。こいつは自動車さえいじらせとけば、一週間でも十日でも平気なやつですから」
 宗一郎の明るい笑顔を見て、榊原はため息をひとつついた。
「そうか。化け物の相手はしていられないな。じゃあ先に寝るぞ」
「はいっ。お休みなさい」
 あと一歩。本当にあと一歩なんだ。ひとりきりの仕事場で、宗一郎は夢中で作業を続けた。
 しらじらと夜が明けようとしていた。手洗いに立った榊原の耳に、小さい金属音が飛び込んできた。物音は仕事場の方から聞こえた。
「まさか、本田のやつ……」
 仕事場に急いだ榊原が見たのは、疲れ果て、目だけをぎらぎらと輝かせた宗一郎の顔と、完璧に組み上げられたエンジンだった。
「旦那さん、エンジンの方はもう大丈夫ですよ……」
 言うなり、宗一郎の体はくたくたと床にくずれ落ちた。あわてて駆け寄り、宗一郎の身を抱きとめながら、榊原は目の奥が熱くなるのを感じていた。
「おい本田ッ! まったくとんでもねえ野郎だよ、お前は」

 エンジンに次いで、シャシー、ボディも完成し、ビュイックは次第に自動車らしい姿かたちを見せはじめた。だが、最大の難問が残っていた。スポークの製作である。当時の自動車は木製のスポークが主流で、このスポーク作りは専門の車大工にさえ至難の業とされていた。
 ここで物を言ったのが、宗一郎の持って生まれた器用さであった。使い馴れていないはずの鋸を、ノミを、鉋を、すぐに自分の手の延長のように使いこなしながら、焼け焦げた古いスポークだけを参考に、宗一郎はものの見事に新品のスポークを作り上げたのである。べへへへっと照れたように笑う宗一郎とスポークを見比べ、榊原と北沢は一瞬ことばを失っていた。
「まったく……お前は大工をやらせても棟梁並みの腕だな」
 ジャッキで持ち上げたビュイックに、タイヤを巻いたスポークを取り付け、車体をゆっくり、ゆっくりと下ろす。ジャッキを回す手から抵抗が感じられなくなったとき、再生ビュイックは四本の足で踏ん張るようにして地面に立っていた。
「うおおおおっ、やったーッ!」
「やったやったやったあーっ!」
 狂喜し、抱き合う宗一郎たちに、榊原はひとつ咳払いをして言った。
「あのなあ、お前ら、自動車っていうのはこうして飾っておくもんじゃない。走らせるものなんだよ。喜ぶのはまだ早いってことだ」
 残るは試乗のみである。運転席に榊原が収まるのを待ち、宗一郎はクランクに手をかけた。
「いいですか、旦那さん」
「おおッ」
 頼んだぞっ。宗一郎は思いきりクランクを回した。ババッ、ダダダダダッ。ビュイックのエンジンは目覚め、盛んな咆吼をあげた。その音が、宗一郎の耳には天から降ってくる至上の音楽に聞こえた。
 試し乗りの結果は最高だった。宗一郎たちはその後も次々に再生ビュイックを作り出し、たった三人になったアート商会は最大の危機を脱した。それと同時に、何ものにも代え難い宝を榊原は得ていた。徹底的に鍛え上げられた宗一郎の腕である。大地震という災いを、アート商会は、そして宗一郎本人は、みごとに福へと転じてみせたのである。


2001年1月4日:本田宗一郎物語(第15回) につづく



参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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