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2000年12月26日:本田宗一郎物語(第6回)

  本田宗一郎物語(第6回)

 飛行機は、広い練兵場の外れに、ぽつんと置かれていた。古い型式の二葉機であった。やがて技師が機体に近づき、プロペラを回す様子を、宗一郎は固唾を飲んで見つめていた。
 エンジンの轟音が空気を切り裂いて響き、機体がぶるぶると細かく震えた。
 宗一郎の全身に鳥肌が立った。パイロットが着座し、エンジンがさらに大きく咆吼したとき、宗一郎は金縛りにあったように動けなくなった。
 アート・スミスの操る二葉機が滑走を始めた。と、機体はみるみるスピードを上げ、観客のどよめきと歓声に煽られたように、ふわりと空に舞い上がった。
「飛んだ……すげえ……」
 空の高みをめざしてたちまち小さくなる飛行機を、まばたきひとつできず、宗一郎はただ見つめた。胸が熱くなった。不意に急降下を始めた機体が、地面すれすれで水平飛行に移る。宙返りをし、きりもみになって落ちかけ、また浮かぶ。そのたびに観衆は悲鳴のような怒号を発した。
 しかし、宗一郎には何も聞こえなかった。学校を無断で休んだことも、親の金を持ち出したことも、その金では入場料に足りず、近くの木によじ登って飛行機を見ていることも、宗一郎の頭からはきれいに消え失せていた。夢のなかにいるようなこの数十分間を、宗一郎は生涯忘れられないことになる。
 やがて曲芸飛行が終わり、一人残らず観衆が練兵場から去っても、宗一郎は木の上から動くことができなかった。はっと我に返り、木から降りようとすると、強張っていた全身の関節がぽきぽきと音をたてた。

 帰路についた宗一郎の全身を、長い道のりの途中から、今度は夕陽が染め上げた。疲れも空腹も忘れて、まだ耳の奥になまなましいエンジンの音を口で真似ながら、宗一郎はパイロットになっていた。細い山道を駆けながら、気分は遠く空の上にあった。
 ひとつ、ふたつと瞬きはじめた星が数を増し、暗い空をやがて覆い尽くす時分になって、高揚した気分は足先のペダルとともに急に重くなり、地面にどさりと落ちてきた。昨夜からの一連の出来事と、自分のおかした罪が、現実のものとなって宗一郎にのしかかってきたのである。
 言い訳はやめよう。そう決意を固めたころ、宗一郎はようやく光明村にたどり着いた。
 宗一郎は、自転車を元の場所に戻し、家に入った。真っ先に気づいた父の儀平が近づいてきた。その顔に向かって、宗一郎は叫ぶように言った。
「ごめんなさい! 飛行機を見てきました」
 驚きに目を見開いた儀平の顔から、怒りの表情がぬぐい去るように消えた。
「飛行機って……お前、浜松までか……?」
 宗一郎の声に、祖父が、祖母が、弟が、そして安堵に目を赤くした母が次々飛び出しきた。
「何をしているんだ、みか。早くめしを食わせてやれ」
 ぶっきらぼうに言うと、儀平は宗一郎を引っ立てるように家に上げ、茶の間の卓の前に座らせた。その夜遅くまで、宗一郎の冒険談と、全身を使い唾を飛ばして語る曲芸飛行の光景に、儀平は熱心に聞き入っていた。飛行機に対する儀平の好奇心は、宗一郎を叱責することを忘れさせるほど大きかったのだが、宗一郎がそれを知るはずもない。どうして自分が怒られずにすんだのかを考えるひとまもなく、父に問われるまま、宗一郎は自在に空を舞う飛行機の様子を何度も繰り返して語った。

 翌大正7(1918)年の春、本田家は二俣川の脇に建つ家に住まいを移した。儀平が鍛冶屋のかたわら、自転車屋を兼業するようになったためである。その仕事場は、道路をはさんでちょうど向かい側に位置していた。このころ浜松地方では道路の整備が進み、自転車の需要は高まる一方であった。儀平の商売は波に乗り、その勢いに押される形で、宗一郎は自転車の修理を手伝うことになった。
 自転車の分解修理など儀平以上の手早さで、しかも正確だった。なによりも、一日中でも機械やその部品をいじって飽きない宗一郎の性向が役に立ったのである.

 宗一郎が、幸次とともに隣町の二俣尋常高等小学校に入学したのは、大正8(1919)年。喜代次だけは別の学校に進んだが、三人の仲の良さは変わらず、遊び友達として互いに欠かせない存在でありつづけた。
 宗一郎が高等小学校で出会った新しい友人に、卯一という少年がいた。やがて宗一郎とともに地元出身の成功者となる山崎卯一(元日本ウェルディング・ロッド社長)その人である。遠い未来のことなど知る由もなく、二人は少年向きの講談本を授業中に回し読みしたり、通学路にある一膳めし屋を冷やかしては水をまかれて追われたりと、罪のない悪友づきあいを繰り返していた。
 そして、大正10(1921)年が訪れた。この年の秋、宗一郎の運命の変転は、ある日突然、しかしそれ以外には考えられない形でもたらされるのである。

2000年12月27日:本田宗一郎物語(第7回) につづく


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