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2000年12月23日:本田宗一郎物語(第3回)

  本田宗一郎物語(第3回)

 宗一郎は喜ぶ前に呆然となった。水のなかであれほど重く不器用だった自分の体が、あまりに簡単に浮いたからだ。
 よし、次は。おそるおそる手足を動かす。と、体は前に進まずたちまち水中に没した。死に物狂いで浅瀬に戻り、息を整えてやり直す。浮かぶ。沈む。浮かぶ。沈む。この繰り返しで、泳ぎは一向に上達しない。どころか、毎日メダカを飲みつづけたせいか、宗一郎はとうとう腹までこわしてしまった。
「くそおおおぉぉぉぉーっ、なんでうまくなんないんだあーっ」
 その日も溺れかけ、痛む腹にごぼごぼと水を飲まされる羽目になった宗一郎は、疲れきった身を河原に横たえ、精一杯の大声を張った。
「メダカじゃダメだっていうのかよおーっ」
 自分のことばに、宗一郎ははっと身を起こした。
 メダカで、水に浮くようになった。それは確かだ。
 ということは。
 それより大きい魚を。ハヤを飲めばいい。
 宗一郎はそうした。体長10センチ近いハヤを、何度も嘔吐をこらえて、ついに、ついに飲み込んだのだ。
「うおおおおーっし。ぼくは泳げる。泳ぐぞ。見てろ!」
 川の深みへ、宗一郎は思いきって頭から身を投げた。暴れるだけだったその手がやがて水をつかみ、つかんだ感触を後ろへ押しやるように動くと、足は推進装置のように体を前へ前へと押し出しはじめる。気がつくと、宗一郎はぐいぐいと泳ぎ、魚のようになめらかに、川面と水中を行き来していた。
「わ……うわっ……わあーっ!」
 自ら顔だけ出し、宗一郎は思うさま、高らかに歓喜の叫びをあげた。メダカを追ってずぶ濡れになるうちに水に馴れ、力を抜いて浮くコツを体が覚える。そして、それまで必死で水上に保とうとしていた頭を下げれば、足が浮く。自在に動くようになる。理屈でいえばそうなるが、
 ハヤだ。きっとハヤのおかげだ。
 宗一郎は心のなかで幾度となくつぶやきつづけた。固く信じて、疑うことを知らなかった。だけどハヤを飲んだのはぼくだ。宗一郎はそうも思っていた。最初に自分の気持ちがあったから、泳げるようになったんだ。
 一念岩をも通す。小学生の宗一郎がそんなことばを知るはずもなかったが、このとき彼は確実にひとつの真実をつかんでいた。
 必ずやる、その思いがあれば、できないことは何もない。
 そうして得た真実を、何のてらいもなく、宗一郎は生涯にわたってつらぬいてゆくのである。

 夏休みが近づいていた。
 天の底が抜けたかと思えるほど青い空が広がる休日、宗一郎は朝から家を飛び出し、いつものように幸次、喜代次と連れだって川遊びに、野駆けに興じていた。じっとしていられない。体が動く。動けば自然に腹が減る。いつしか三人は、あまりの空腹に耐えかね、太い樹木の幹に背中からよりかかるようにへたりこんでいた。高く濃い枝葉が陽をさえぎり、森をわたる風が心地よく頬をなぶる。その心地よささえ、三人には、空腹を刺激する材料にしかならなかった。
「腹へったなー」
「でも、お昼にはまだだいぶあるよ」
「ああー、とてももたねえ。なんとかならねえかなあ……」
 宗一郎は眉を寄せ、鼻水の湿りを着物の袖でずずっと拭った。何かを考えるときの癖である。ややあって、ぶへへへっと笑った宗一郎を、幸次と喜代次は期待に輝く目で見つめた。それは、気分が高揚した宗一郎が決まって発する笑いだったからだ。
「宗ちゃん、何か思いついたの?」
「お昼が遠いんなら、近づければいいんだ」
 幸次と喜代次は、とまどった顔を見合わせる。
「近づけるって、どうやって?」
「わけないよ。清滝寺へ行くんだ」
「清滝寺って、宗ちゃん、まさか……」
 宗一郎のいう清滝寺は、南隣の二俣町にあった。徳川家康が、長男・信康の霊を慰めるため自ら開いた、由緒ある寺である。
 各家庭に今ほど時計が行き渡らず、野良で働くことも多かったこの頃、光明村と二俣町の人びとは、その寺の鐘を正午の時報にしていた。その鐘をつけば、たちまち昼が訪れるというわけである。
「行くぜっ」
 走り出す宗一郎に、見えない紐でもついているように、幸次と喜代次は後を追う。息せききって走りながら、
「大丈夫かよ、宗ちゃん」
「和尚さんに見つかったらえらい目にあうぜぇ」
 不安を口にする二人を振り返って見、ぶへへっと宗一郎はまた笑った。
「びくびくすんなって。飢え死にするよりマシだい」
 寺に着いた三人は、境内に誰もいないことを確かめつつ、忍び足で山門をくぐる。二人を見張り役に立て、宗一郎は鐘楼に駆け上がった。黒光りする鐘を見つめ、太い撞木から下がる縄をぐっと握りしめる。二度、三度、四度と勢いをつけて、宗一郎は渾身の力を鐘にぶつけた。
「それえっ!」
 ごおおおおおおおおん……。
 夏の陽が降りそそぐ野山を、田畑をゆったりとなびかせて、鐘の響きが遠くおだやかに広がってゆく。その音を追うように、あるいは何かに追われるように、ひきつった笑顔の三人は光明村めがけて走りに走った。
「やったねえっ、宗ちゃん」
「やったやった」
「べっへへへへへ」
 その日、光明村のお昼は、一時間ほど早まった。

2000年12月24日:本田宗一郎物語(第4回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他


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