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2000年12月21日:本田宗一郎物語(第1回)

  本田宗一郎物語(第1回)

 かつての駿河の国、静岡県。その西をつらぬく天竜川は、猛々しいほど急速な流れをもつ上流、ひろびろと穏やかな水をたたえた下流から成る。
 その支流のひとつ、二俣川沿いに開けた静かな山村に、代々鍛冶屋を営む小さな旧家があった。
 姓を本田という。秋の深いその日も、熱気のこもった鍛冶の作業場には、炎に空気を送り込むふいごの何かに激しく怒ったような、しかし規則正しいブオッ、ブオッという音が満ち、それが途切れるや、赤く焼けた鉄材を槌でたたくカン、カン、カンと硬く澄んだ音が響いていた。
 親方の儀平とその弟子、二人きりの作業である。効率は決してよくないが、着実に仕事をこなすのが、腕は立つが寡黙な職人、儀平のやり方であった。だが、その日の儀平には、一途と言うにはあまりに性急な、いつにない落ち着きのなさが見てとれた。そんな儀平の様子を気にして、ちらちらと横顔をうかがっていた弟子が、たまらず小さい声をかけた。
「親方……いいんですか、おかみさん、そろそろですけど……」
「よけいなことを考えるなっ。それよりもっと気を入れてポンプを押せ!」
 一喝された弟子は、すいません、とだけ言い黙り込む。このとき、儀平の妻であるみかは、別室にのべられた布団のなかで出産の瞬間を目前にしていた。別室とはいえ狭い家である。儀平は、初産の苦しみに耐える妻の声を耳にするのがつらくてならず、常ならぬ手荒い仕事ぶりで、みかの声をかき消そうとしていたのだ。
 ふいごが低く太く叫び、強く鋭く振り下ろされた槌が熱い鉄の上で金属質の悲鳴をあげる。耳を圧するその音を不意に突き破って、
 おぎゃあぁぁぁぁ!
 初めて息を吸って吐きだした赤子の叫びが、家の空気を切り裂いて響きわたった。弟子が、槌を振るう手をはっと止めて儀平を見る。当の儀平は、作業を中断しようとも、額から頬へしきりに流れ落ちる汗を気にする様子も見せない。カン、カン、カン、カン! と、儀平の母が作業場に飛び込んで来るや、生まれたぞ、と声を絞って短く叫んだ。
「どっちだっ」
「男の子だよッ」
 それを聞いてなお、儀平は手を止めようとしない。その姿は、喜びを素直に表現できない自分を恥じているようにも、こんなときにも男は仕事場を離れちゃなんねえんだ、と、生まれたばかりのわが子に、職人の誇りを無言のうちに語っているようにも見えた。
 明治39(1906)年11月17日、本田宗一郎誕生。熱い血を頑固一徹な職人魂の下に押し込んだ父・儀平。優しく気丈な母・みか。村一番の器用者と称された祖母。家族思いで、なかでも初孫をくるむような暖かな視線で見守り、養育役も担った祖父。
 その後の宗一郎の人生を眺め通すとき、まことに象徴的なたたずまいを持つ人びとが、そこに顔をそろえていたのである。

 宗一郎が生まれた静岡県磐田郡光明村は、現在の天竜市にあたる。ゆたかで伸びやかな自然に恵まれたこの土地にも、大きな変革の波は押し寄せつつあった。人力から人口動力、すなわち機械への移行である。そして、その機械に並々ならぬ好奇と関心を寄せたのが、まだ足も立たず、ことばも発せぬ幼い日の宗一郎であった。
「あれ? また精米所ですか?」
 顔見知りの村人が声をかけたのは、宗一郎を背中におぶった祖父である。
「いやあ、この坊主が聞かないんで困りますよ。今日も泣いてせがまれましてな」
 無駄話などやめて早く行こう、とばかりに、その背で宗一郎がむずかる。
「おお、よしよし。行こうな」
 宗一郎の大好きな精米用の発動機を見せるために、祖父は晴れた日もどしゃぶりの雨の日も同じ道を歩いた。当時、忙しい両親に代わって祖父母が孫の面倒を見るのはめずらしい光景ではなかったが、宗一郎の祖父の溺愛ぶりは群を抜いていた。精米所に連れて行くと、宗一郎は目をいっぱいに見開き、小さい手足の動きさえ止めて、そこに広がる光景をじっと見つめる。その風情が、祖父には可愛くてならなかったのだ。
 だが、当の宗一郎の胸の内はそれどころではなかった。ごとごとと重そうに身を震わせ、熱い蒸気を噴き出す黒っぽい機械は、初めて目にした瞬間から彼の幼い心をわしづかみにしていた。
 黙々とリズミカルに回転するベルト。ベルトを受ける部分だけが目に痛いほどの銀色に輝くシャフト。機械油の強い匂い。それらすべてが宗一郎には畏怖と神秘の対象であり、轟然たる騒音さえ、その耳には天上の音楽として鳴り響いていた。このときの経験がなければ、あるいは宗一郎の人生はそっくり形を変えていたかもしれない。それほど強烈な印象が、ハツドウキということばとともに、幼い宗一郎の身と心に深く刻み込まれたのである。
 精米所と並んで、宗一郎の猛然たる好奇心の対象となっていたのが父の仕事場であった。朝になると火を入れられ、日を通じて熱と騒音に満たされて、夜になると死んだように静まる。そんな空間に生き物のような不思議と親しみを覚え、宗一郎ははいはいを始めた赤子の頃からしきりに近づこうとした。だが、鉄を溶かすほどの炎を使う場所に、父の儀平が幼子の立ち入りを許すはずもない。金槌の音にひかれては現れる宗一郎の顔を見ると、儀平は決まって、おーい、みかッ、と妻の名を呼び、
「坊主をどっか連れて行ってくれ。気が散っていけねえ」
 同じ言い回しを繰り返すのが常だった。
 やがて知恵をつけた宗一郎が、早朝や父の不在をねらって仕事場に忍び込むようになったのは、3歳になるかならぬ時分である。使い込まれて鈍く光る金槌をおそるおそる握っては、見よう見まねで振ってみる。重すぎるその槌を使って、自分のための金属製の小さいおもちゃを作り出すまで、さほど時間はかからなかった。今も宗一郎は、陽当たりのいい縁側で、しきりに糸車を操る祖母に向かって新作のおもちゃを自慢げに見せている。
「ばあちゃん、これ見てよ」
 見事な正三角形を形作る鉄材に、祖母は感心しきった声を上げた。
「ほーお。これ、お前が曲げたのかい?」
「うん」
 宗一郎は誇らしさをかくせない様子で応じる。
「やっぱりお前も本田の家の子だねえ。きっと父ちゃん以上の鍛冶屋になるよ」
 だが宗一郎は、意外きわまることばをきっぱりと祖母に返した。
「ぼくはカジヤにはならないよ」

2000年12月22日:本田宗一郎物語(第2回) につづく


参考文献:「本田宗一郎物語」宝友出版社、その他

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